女子英学塾を創設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:25 UTC 版)
成瀬仁蔵の女子大学創設運動や、明治32年(1899年)の高等女学校令・私立学校令による法整備で女子教育への機運が高まると、梅子は「自らの学校」を開く活動を開始。 フィラデルフィアのモリス夫人、ブリンマー大学学長であるM・ケアリ・トマス(英語版)など、梅子の志に共鳴するアメリカの人々は、モリス夫人を委員長とする「フィラデルフィア委員会」(The Philadelphia Permanent Committee for Tsuda College)を明治33年(1900年)春に組織して、梅子の学校(Miss Tsuda's School)を支える寄付金を継続的に集めて日本へ送り続けた。 アリス・ベーコン(梅子を助けるためにアメリカから来日)、大山捨松、瓜生繁子、新渡戸稲造、巌本善治、上野栄三郎、桜井彦一郎(櫻井鴎村)らの協力者の助力を得た梅子は、明治33年(1900年)7月に華族女学校教授 兼女子高等師範学校教授を辞し、私立学校令に基づく「女子英学塾」の設立願を東京府知事に提出して認可を受ける。同年9月14日「女子英学塾」を東京市麹町区一番町(現:千代田区三番町)の借家に開校、塾長として華族平民の別なき女子教育を志向して、一般女子の教育を始めた。開校時の学生は10名であった。 女子英学塾は、それまでの良妻賢母主義的な女子教育と違い、進歩的で自由なレベルの高い授業が評判となった。学生数10名で明治33年(1900年)に出発した塾は、8年後の明治41年(1908年)には学生数150名に達した。 一方で、塾の教育の厳しさも評判となり、開校当初は脱落者が相次いだ(→#厳格な英語教師)。 梅子、アリス(明治35年〈1902年〉に2年の任期を終えて帰国)、アナ・ハーツホン(明治35年〈1902年〉にアリスと入れ替わりで来日して、昭和15年〈1940年〉まで一度も報酬を受け取らずに塾で教鞭を執り、病に倒れた梅子の志を引き継いで生涯を塾に捧げた)らは無報酬で塾に奉仕していたものの、授業料収入(学生1名につき年額24円)のみでは学生・教師の増加に伴う塾の拡張(土地建物購入)も見込めず、塾の経営は常に厳しかった。資金面で大きな助力となったのは、主にアメリカの支援者からの寄付金で、梅子は支援者への手紙を書き続け、一か月に300通を書いたこともあった。塾顧問を務めていた大山捨松を介して、ヴァッサー大学の同級会(クラス・オブ・’82)から送られてきた50ドルの寄付金に対し、深く感謝を表し、使途の詳細を伝えた梅子の手紙(明治35年〈1905年〉8月31日付)が残っている。 東京市麹町区一番町で明治33年(1900年)9月に発足した塾は、麹町区元園町(現:千代田区麹町。明治34年〈1901年〉4月に移転)を経て、明治36年(1903年)2月、新築落成した麹町区五番町(現:千代田区一番町)の恒久的な校舎に移った。明治35年(1902年)夏の五番町の土地建物購入時の代価は1万円で、ボストンのウッズ夫人(Mrs. Henry Woods)から寄せられた大口の寄付金で大部分が賄われた。 明治36年(1903年)3月に専門学校令が公布されると、塾は翌明治37年(1904年)3月に専門学校の認可を受け、同年9月には、「社団法人女子英学塾」の設立許可により、社団法人に移行した。さらに明治38年(1905年)9月、塾は私立女子教育機関としては初めて、無試験検定による英語教員免許状の授与権を与えられた。 明治38年(1905年)10月17日、梅子を会長として日本基督教女子青年会(日本YWCA)が創立された。大正4年(1915年)8月には、軽井沢の夏期学校で「日本の婦人運動」(Women's Movement in Japan )と題して講演、長時間議論を行った。その要旨は「ジャパン・アドバタイザー」で紹介され、後に米国の「クリスチャン・サイエンス・モニター」に掲載された。
※この「女子英学塾を創設」の解説は、「津田梅子」の解説の一部です。
「女子英学塾を創設」を含む「津田梅子」の記事については、「津田梅子」の概要を参照ください。
- 女子英学塾を創設のページへのリンク