厳格な英語教師
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英語教師として女子英学塾の教壇に立つ際は、極めて厳格であったことを示す逸話が多い。 開校当時の女子英学塾では、あまりの厳しさから脱落者が相次いだ。塾が開校した6年後の明治39年(1906年)に刊行された女学生向けのガイドブックには「女子英学塾の教育は極めて厳しく、並大抵の勉強ではついて行けない」旨が記されている。厳しさの背景には、高等女学校の英語教育のレベルが一般的に低い状況において、塾における3年間の教育で、英語教員免許状を取得できるレベルまで学生を鍛え上げねばならない、という事情もあった。 塾の学生たちに対しては「自学自習が基本であり、授業は疑問を解決する場」という方針を示し、学生たちは完璧な予習を求められた。英語の発音指導は特に厳しく、”No, no! Once more! Once more!” と、正しい発音をできるまで何十回でも繰り返させた。 塾の第1回卒業生の一人は、下記のように述べている。 私はあのやうに身にしみた授業を受けた事は曽てなく、……、先生は何事も何事もいい加減な事はお嫌ひでありました。……自分で辞書の隅から隅まで探し、適訳を見つけさせました…… — 出典には氏名の記載あり、 女子英学塾塾長(第2代)・津田塾大学学長(初代)を務めた星野あい(明治39年〈1906年〉女子英学塾卒業)は、下記のように述べている。 先生から直接指導を受けたのは一年半に過ぎなかったが、その授業の徹底、少しのごまかしも許さぬ厳しさは身に沁みて今に至るも忘れることは出来ない。 — 昭和30年(1955年)、星野あい、 塾の教え子の一人は、下記のように述べている。 先生は日本婦人に稀にみる熱と力の人で、その熱と力を集中しての訓練は、峻厳をきわめ、怠け者や力不足の者は学校に居たたまれぬほどであった。その代わりに学生の態度が真剣で熱心であると、人一倍喜ばれた。はなはだしい愚問でないかぎり、生徒がいくらくどく質問しても、決していやな顔をされず、得心のいくまで教えられた。時には生徒が先生を言い負かすようなことがあっても、怒られぬのみかかえってその意気を喜ばれた。 — 教え子の氏名などは出典に記載なし、 女子英学塾の第10回卒業生である山川菊栄の回想(『山川菊栄集 8 このひとびと』〈岩波書店、1982〉)によると、良家の令嬢が集う華族女学校や女子高等師範学校の教授を務めていた時の梅子は、アメリカの習慣通りに鞭を持って教室に現れて令嬢たちを驚愕させた、という。
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