厳格な政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 14:18 UTC 版)
苟晞の政務は習熟しており、文書や帳簿が山積しても流れるように裁断・決済を行ったので、彼の目を欺いて不正を働こうと考える者は誰もいなかった。苟晞の従母が頼って来ると、彼は手厚く世話を行った。従母の息子が将に取り立てるよう頼むと、苟晞はこれを拒み「我は王朝の法を司っており、誰であっても多めに見る事はない。君は後悔するようなことがないと言えるのかね?」と答えた。それでも彼が強く頼んだので、苟晞は督護に任じた。後に彼は法律を犯したので、苟晞は規則に則って処刑を断行し、従母が叩頭して許しを求めたが聞き入れなかった。刑が執行されると、喪服に着替えて声をあげて涙を流し「卿を殺したのは兗州刺史であり、今涙を流しているのは苟道将(苟晞の字)である」と言った。彼が法律に厳格である様はこのようなものであった。 苟晞は朝廷の政治が日々乱れているのを見て、禍が自らに及ばぬよう多くの人と交流を深め、珍品を得るといつも洛陽の親しい貴人に贈った。兗州は洛陽から五百里離れているので、贈り物が鮮美でなくなることを恐れ、千里を進む牛を集め、連絡を取り合って朝に出発して夜には帰って来るようにしていた。 司馬越は国家の仇敵を討たんとする苟晞の志を立派であると思い、洛陽に招集して朝堂に登らせ、義兄弟の契りを結んだ。すると、司馬潘滔らは司馬越を諫め、苟晞に要衝の地である兗州を預けるのは危険である事から、彼を青州に移らせて名誉と称号を手厚くし、司馬越自らが兗州を治めるべきである、と進言した。司馬越はこれに同意し、苟晞を征東大将軍・開府儀同三司に任じ、侍中・仮節・都督青州諸軍事を加え、青州刺史を兼任させ、東平郡公に昇格させた。これにより、苟晞と司馬越の関係には亀裂が入った。 苟晞は青州に着任すると、多くの幕僚を配置して元の太守や県令と入れ替え、厳格な法や規則で臨んで政治を正そうとした。その為、毎日のように法を犯した者が容赦なく処刑され、流れた血が川を成すほどであった。人びとは次第に彼の政治に耐え切れなくなり、彼に『屠伯』という蔑称を与えた。 307年12月、頓丘郡太守魏植は流民に強要され、5・6万人を集めて挙兵し、兗州を大いに荒らし回った。苟晞は出兵すると無塩に駐屯し、弟の苟純に青州を代わりに治めさせた。苟晞は兵を繰り出すと、魏植軍を撃破した。 これより以前の307年2月、東萊人の王弥は征東大将軍を自称すると、兵を率いて青州・徐州一帯を大いに荒らしまわって太守を殺害していた。司馬越は東萊郡太守鞠羨(きくせん)を討伐に当たらせたが、鞠羨は敗れて討ち取られた。苟晞は王弥討伐に赴くと、大勝して王弥の兵を離散させた。308年3月、王弥は離散した兵を結集させると再び勢いを盛り返し、苟晞はこれと争うも敗れた。
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