女子職業教育協会 (1862年)
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「エリザ・ルモニエ」の記事における「女子職業教育協会 (1862年)」の解説
また、女子中等教育制度(公教育)が確立されたのは、女子中等教育に関する1880年12月21日の法律(カミーユ・セー(フランス語版)法)によってであり、エリザはこれら1880年代の教育改革より20年も前に女子職業教育の第一歩を刻んだ。1856年、18人の女性とともに「母の保護協会」を設立した。「母の保護」という言葉は、エリザが母親としての女性の役割を重視したからであり、彼女はこの協会を、「一人でも多くの貧困家庭の女子に職業教育を無償で提供するために結成された既婚女性・未婚女性の集会」と定義した。この活動は多くの著名な共和主義者やサン=シモン主義者の支持を得た。イポリット・カルノーのほか、後に終身上院議員、アカデミー・フランセーズ会員、首相を務めることになったジュール・シモン(フランス語版)、政治家のエドモン・アダム(フランス語版)、ウジェーヌ・ペルタン(フランス語版)らは、こうした女性市民の教育は民主主義と共和国の基盤であるとし、また、資金面では、哲学者・政治家のジュール・バルテルミ=サンティレール(フランス語版)、サン=シモン主義の実業家フランソワ・バルテルミ・アルレス=デュフール(フランス語版)(フランス人女性で初めてバカロレアを取得したジュリー=ヴィクトワール・ドービエを支援したことでも知られる)、作家アレクサンドル・デュマ・ペール、ロチルド家(ロスチャイルド家)のナタニエル・ド・ロチルド(ナサニエル・ド・ロスチャイルド)、ジェームス・ド・ロチルド(ジャコブ・マイエール・ド・ロチルド)男爵夫人、ギュスタヴ・ド・ロチルド(フランス語版)男爵夫人、そして画家のローザ・ボヌールが援助した。 1862年5月には組織を拡大して「女子職業教育協会」を設立した。「母の保護協会」設立から6年間に1万フラン近い献金があり、女子職業教育協会設立後も、反教権主義の自由思想家やフリーメイソンの支部、ペレール兄弟、クレディ・リヨネ(フランス語版)創設者のアンリ・ジェルマン(フランス語版)、クレディ・リヨネやソシエテ・ジェネラルの創設に参加したポーラン・タラボ(フランス語版)、政治家のジャック・アレクサンドル・ビクシオ(フランス語版)、歴史学者のアンリ・マルタン(フランス語版)、経済学者・政治家のミシェル・シュヴァリエ、声楽家・作曲家のポーリーヌ・ヴィアルドらからさらに多くの支援を得た。 女子職業教育協会の目的は、「パリに女子職業学校を設立し、経営すること、就労を希望する若い成人女性が様々な職業に就けるように講座を開講すること」である。エリザはこのためにパリ3区のペルル通り(フランス語版)に場所を確保し、講義要領や時間割を作成した。初代校長にはマリー=ジョゼフィーヌ・ド・マルシェフ=ジラール(フランス語版)が就任した。学校は急速に発展し、最初は15人だった学生が2か月後には50人、2年目には150人に達し、この間、縫製作業所が設置され、速記法を開発したエメ・パリ(フランス語版)は音楽教員として無償で講義を行った。教室が手狭になったため、同じ3区のテュレンヌ通り(フランス語版)の広い建物に移転した。また、同様の女子職業学校の設立を希望する声が高まり、9区のロシュシュアール通り(フランス語版)に2校目を開学した。エリザの女子職業教育学校は3年制の学校であり、一般科目にはフランス語、算数、歴史、地理、物理、化学、衛生学、博物学、絵画、装飾画、正書法、声楽などがあり、専門科目は商業、簿記、商業算数、商法、英語、用器画などであった。また、縫製作業所に加えて、木版画、陶器絵付けなどの作業所も設置された。学費は1か月10フランで、家庭の経済状況によって金額の異なる3種類の奨学金を提供した。 当時の女子中等教育が一部の貴族・ブルジョア階級の女性を対象として修道院や寄宿学校で行われていたのに対して、エリザの学校は通学制で、しかも、宗教を問わずすべての女性に開かれた、非宗教的な学校であった。エリザは、宗教教育は家庭で行うべきであると考えていたからである。
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