第二の両親、ランマン夫妻
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「津田梅子」の記事における「第二の両親、ランマン夫妻」の解説
2月29日にワシントンD.C.に到着すると、梅子は吉益亮子とともにワシントンD.C.近郊のジョージタウンに住む、チャールズ・ランマン (英語版)に引き取られた。著名な画家・著述家・旅行家であったランマンは、当時、日本弁務使館書記官(Secretary of the Japanese Legation)を務めていた。1872年5月1日(新暦)には駐米少弁務使森有礼の斡旋で、留学生5人はワシントン市内に集められて同じ家に住まわされ、生活に必要な最低限の英語の勉強をさせられた。同年10月末(新暦)には、上田悌子は体調不良を、吉益亮子は勉強に支障が出るほど目を悪くしたことを理由に帰国した。残った3人がうめ、山川捨松(のちの大山捨松)、永井しげ(のちの瓜生繁子)である。この3人は生涯親しくしており、梅子がのちに「女子英学塾」(のちの津田塾大学)を設立する際に2人は助力する(→#女子英学塾を創設)。 2人の留学生の帰国を機に残った3人は再び別々にアメリカの家庭に預かられることとなり、梅子は再びランマン家に預けられた。梅子はそこで十年を過ごすこととなった。ランマン家は家計にゆとりがある文化的な家庭であり、ランマン夫妻は梅子を実の娘同様に慈しんだ。当初はランマン家に梅子が預けられるのは1年間の予定であったが、期限が近づいた時期の、ランマン夫妻の書簡(出典には宛先の記載なし)には「仮に梅子の留学が打ち切られるようなことがあれば、私どもが梅子の養育費や教育費を負担して預かり続ける覚悟です」という旨が記載されている。梅子自身もランマン夫妻を深く敬慕し、日本に帰国した明治15年(1882年)から、ランマン夫人が大正3年(1914年)に88歳で亡くなる直前まで、数百通に及ぶ手紙をランマン夫人に書き送っている。 梅子は英語、ピアノなどを学びはじめ、市内のコレジエト・インスティチュートへ通う。日本宛の手紙も英文で書くようになる。この頃にはキリスト教への信仰も芽生え、ランマン夫妻には信仰を薦められていないが、明治6年(1873年)7月に特定の教派に属さないペンシルベニア州フィラデルフィアの独立教会で洗礼を受けた。梅子に洗礼を授けた牧師は「感性と表現力は幾つか年上のアメリカの子より優れている。」と梅子を評した。明治11年(1878年)にはコレジエト校を卒業し、私立女学校であるアーチャー・インスティチュートへ進学。ラテン語、フランス語などの語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学ぶ。ピアノはかなりの腕前に達し、帰国後は何度も人前で演奏した。また休暇にはランマン夫妻に連れられて各地への旅行を体験した。
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