第二の両親、ランマン夫妻とは? わかりやすく解説

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第二の両親、ランマン夫妻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:25 UTC 版)

津田梅子」の記事における「第二の両親、ランマン夫妻」の解説

2月29日ワシントンD.C.到着すると、梅子吉益亮子とともにワシントンD.C.近郊ジョージタウンに住む、チャールズ・ランマン (英語版)に引き取られた。著名な画家著述家旅行家であったランマンは、当時日本弁務使書記官Secretary of the Japanese Legation)を務めていた。1872年5月1日新暦)には駐米少弁務使森有礼斡旋で、留学生5人はワシントン市内に集められて同じ家に住まわされ、生活に必要な最低限の英語の勉強させられた。同年10月末(新暦)には、上田悌子は体調不良を、吉益亮子勉強支障が出るほど目を悪くしたことを理由帰国した残った3人がうめ、山川捨松(のちの大山捨松)、永井しげ(のちの瓜生繁子)である。この3人は生涯親しくしており、梅子がのちに「女子英学塾」(のちの津田塾大学)を設立する際に2人助力する(→#女子英学塾を創設)。 2人留学生帰国機に残った3人は再び別々にアメリカ家庭に預かられることとなり、梅子は再びランマン家に預けられた。梅子はそこで十年を過ごすこととなったランマン家は家計にゆとりがある文化的な家庭であり、ランマン夫妻梅子実の同様に慈しんだ。当初ランマン家に梅子預けられるのは1年間予定であったが、期限が近づいた時期の、ランマン夫妻書簡出典には宛先記載なし)には「仮に梅子留学打ち切られるようなことがあれば、私ども梅子養育費教育費負担して預かり続け覚悟です」という旨が記載されている。梅子自身ランマン夫妻深く敬慕し、日本に帰国した明治15年1882年)から、ランマン夫人大正3年1914年)に88歳で亡くなる直前まで、数百通に及ぶ手紙ランマン夫人書き送っている。 梅子は英語、ピアノなどを学びはじめ、市内のコレジエト・インスティチュートへ通う。日本の手紙も英文で書くようになるこの頃にはキリスト教への信仰芽生えランマン夫妻には信仰薦められていないが、明治6年1873年7月特定の教派属さないペンシルベニア州フィラデルフィア独立教会洗礼受けた梅子洗礼授けた牧師は「感性表現力幾つか年上アメリカの子より優れている。」と梅子評した明治11年1878年)にはコレジエト校を卒業し私立女学校であるアーチャー・インスティチュートへ進学ラテン語フランス語などの語学英文学のほか、自然科学心理学芸術などを学ぶ。ピアノかなりの腕前達し帰国後は何度も人前演奏した。また休暇にはランマン夫妻に連れられて各地への旅行体験した

※この「第二の両親、ランマン夫妻」の解説は、「津田梅子」の解説の一部です。
「第二の両親、ランマン夫妻」を含む「津田梅子」の記事については、「津田梅子」の概要を参照ください。

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