第二の全盛期とモンゴルによる破壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 08:45 UTC 版)
「ラッカ」の記事における「第二の全盛期とモンゴルによる破壊」の解説
12世紀半ばのザンギー支配下(ザンギー朝)から13世紀前半のアイユーブ朝初期にかけての時代、ラッカは農業と手工業の生産力をもとに第二の繁栄期を迎える。この時期、ラッカの名を世界に轟かせたのはラッカ・ウェア (Raqqa ware) と呼ばれる青い釉薬をかけた陶器であり、イスラム陶芸の中心地のひとつであった。ラッカに現存するバーブ・バグダード(バグダード門)とカスル・アル・バナート(Qasr al-Banāt、淑女の城)は、当時の大都市ラッカの繁栄振りを物語る。しかし1260年代、モンゴル帝国の侵入と徹底的な破壊でラッカの歴史は終わる。1288年の記録では、ラッカの街の廃墟にいた最後の生き残りの住民が殺されたとの報告がある。以後長い間ラッカは再建されなかった。ラッカの周囲では、この破壊でレサファ(英語版)(セルジオポリス)やハッラーン(ハラン)といった古代に栄えた街も滅ぼされ、今日まで再建されないまま遺跡となっている。
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