ザンギー朝とは? わかりやすく解説

ザンギー朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/05 23:21 UTC 版)

ザンギー朝

1127年 - 1250年

ザンギー朝の最大領域
公用語 オグズ語アラビア語
首都 アレッポ
エミール
1127年 - 1146年 イマードゥッディーン・ザンギー1世(初代)
1241年 - 1250年 マフムード・アルマリク・アルザーヒル(最後)
変遷
成立 1127年
滅亡 1250年

ザンギー朝(英語:Zengid Dynasty, アラビア語:زنكيون)は、12世紀から13世紀にかけてイラク北部(ジャズィーラ)とシリアを支配した、テュルク系のアタベク政権。武将イマードゥッディーン・ザンギー(ザンギー、1087年? - 1146年)により樹立された。十字軍に対し、イスラム世界最初の組織的な抵抗を行った政権である。

ザンギーのアタベク政権

ザンギーの父アーク・スンクルはセルジューク朝のスルタン・マリク・シャーに従う武将でシリア北部の都市アレッポを任されていたが、半独立への動きを見せたため殺され、ザンギーはモースルの領主(アタベク)ケルボガ(カルブーカ)の下で育った。バスラを治めていたザンギーは、1127年、セルジューク朝のスルタン・マフムード2世アッバース朝カリフムスタルシドによる反乱から守った功績を認められ、同年イラク北部の都市モースルの太守に任ぜられた。

彼は翌1128年シリア・セルジューク朝アルトゥク朝の領主が相次いで倒れ混乱していたアレッポに入り、アルトゥク朝アタベクのバラクの妻だった女性と結婚し、自らアタベクとなった。以後はシリア南部の中心ダマスカスブーリー朝と争い、1144年には十字軍国家エデッサ伯国の都エデッサ(現在のトルコシャンルウルファ)を陥落させた(エデッサ包囲戦英語版)。十字軍国家群の一角を崩したザンギーは一躍イスラム世界の英雄として称えられたが、1146年に奴隷に暗殺されてしまった。

分裂と2代目ヌールッディーンの活躍

ザンギーの死により、その領土は2つに分かれた。モースルとイラク北部は長男サイフッディーン・ガーズィーが、アレッポとその周辺は二男ヌールッディーンが継いだ。ヌールッディーンは父に匹敵する武勇を見せた。彼は早速、エデッサ伯国が奪回していたエデッサの街を落とし、1149年にはイナブの戦いで十字軍国家アンティオキア公国の公爵レーモン・ド・ポワティエを破って殺し、1150年にはユーフラテス川の西に残っていたエデッサ伯国を滅ぼし伯爵ジョスラン2世を捕らえた。1154年、父が最後まで手に入れられなかったダマスカスをブーリー朝から奪い、自らの首都とすることに成功した。

ヌールッディーンはダマスカスを拠点に十字軍と戦う。1160年、アンティオキア公国の公爵ルノー・ド・シャティヨンを捕らえ公国領土の大半を奪った。1160年代、ヌールッディーンはセルジューク朝の分家、アナトリアのルーム・セルジューク朝と抗争する一方、ファーティマ朝エジプトを巡ってエルサレム王国の王アモーリー1世とも戦った。彼がファーティマ朝支援のために派遣した武将シール・クーフはエルサレム王国軍を退けてエジプトをザンギー朝の影響下に置き十字軍国家群を圧迫した。しかし1169年にシール・クーフの甥サラーフッディーン(サラディン)が宰相兼軍最高司令官となるとエジプトはザンギー朝に従わず自立傾向を強め、サラーフッディーンが治めるアイユーブ朝が成立する。

1171年にファーティマ朝のシーア派カリフが死ぬとサラーフッディーンはカリフを廃してファーティマ朝を滅ぼし、自らスルタンを称して、バグダードのアッバース朝スンニ派カリフに従った。ヌールッディーンはサラーフッディーンの領土的野心を疑い、関係は悪化した。サラーフッディーンは1171年と1173年のヌールッディーンのエルサレム攻撃に対し、理由をつけて参戦を固辞した。ヌールッディーンはアイユーブ朝を従わせるためにエジプト侵攻を準備したが、その最中の1174年5月15日に急病で死んだ。

ヌールッディーン以後

彼の息子で後継者のアッサリーフ・イスマイル・アルマリク(サリーフ)はまだ幼く、ダマスカスを巡る情勢は緊迫した。モースルのザンギー朝君主・サイフッディーン・ガーズィーはアレッポ近郊にまで進出し十字軍国家はダマスカスを狙った。サリーフはダマスカスからアレッポに移ったが、直後アレッポとダマスカスのザンギー朝家臣たちの対立が表面化し、この機にサラーフッディーンはダマスカスに入城した。

以後、サリーフは1181年までアレッポを治めるが暗殺され、モースルのザンギー朝がアレッポを支配した。1183年、サラーフッディーンはアレッポを開城させ、ザンギー朝のシリア支配は終了する。

ザンギー朝は13世紀まで北イラクを支配し続けたが、1234年にモースルのザンギー朝は断絶し、1250年には分家も断絶した。

ザンギー朝のアタベクおよびアミール

モースル

モースルのザンギー朝アタベクおよびアミール1127年 - 1234年

  • イマードゥッディーン・ザンギー1世 Imad ad-Din Zengi I 1127年 - 1146年
  • サイフッディーン・ガーズィー1世 Saif ad-Din Ghazi I 1146年 - 1149年
  • クトブッディーン・マウドゥード Qutb ad-Din Mawdud 1149年 - 1170年
  • サイフッディーン・ガーズィー2世 Saif ad-Din Ghazi II 1170年 - 1180年
  • イッズッディーン・マスウード1世 Izz ad-Din Mas'ud I 1180年 - 1193年
  • ヌールッディーン・アルスラーン・シャー1世 Nur ad-Din Arslan Shah I 1193年 - 1211年
  • イッズッディーン・マスウード2世 Izz ad-Din Mas'ud II 1211年 - 1218年
  • ヌールッディーン・アルスラーン・シャー2世 Nur ad-Din Arslan Shah II 1218年 - 1219年
  • ナースィルッディーン・マフムード Nasir ad-Din Mahmud 1219年 - 1234年
  • バドルッディーン・ルール Badr al-Din Lu'lu 1234年 - 1259年

アレッポ

アレッポのザンギー朝アミール(1128年 - 1183年

ダマスカス

ダマスカスのザンギー朝アミール(1154年 - 1174年

シンジャール

シンジャール(北イラク、モースル西方)のザンギー朝アミール(1171年 - 1220年

  • イマードゥッディーン・ザンギー2世 Imad ad-Din Zengi II 1171年 - 1197年
  • クトゥブッディーン・ムハンマド Qutb ad-Din Muhammad 1197年 - 1219年
  • イマードゥッディーン・シャーハーンシャー Imad ad-Din Shahanshah 1219年 - 1220年
  • ジャハールッディーン・マフムード Jalal ad-Din Mahmud 1219年 - 1220年
  • ファトフッディーン・ウマル Fath ad-Din Umar 1219年 - 1220年

ジャズィーラ

ジャズィーラ(北イラク)のザンギー朝アミール(1180年 - 1250年

  • ムイッズッディーン・サンジャール・シャー Mu'izz ad-Din Sanjar Shah 1180年 - 1208年
  • ムイッズッディーン・マフムード Mu'izz ad-Din Mahmud 1208年 - 1241年
  • マフムード・アルマリク・アルザーヒル Mahmud Al-Malik Al-Zahir 1241年 - 1250年

系図

 
 
 
 
 
 
 
アーク・スンクル
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イマードゥッディーン・ザンギー1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
サイフッディーン・ガーズィー1世
 
ヌールッディーン・マフムード
アレッポ・ダマスカスのアミール
 
ナースルッディーン
 
クトブッディーン・マウドゥード
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アッサリーフ・イスマイル・アルマリク
アレッポ・ダマスカスのアミール
 
サイフッディーン・ガーズィー2世
 
イッズッディーン・マスウード1世
 
イマードゥッディーン・ザンギー2世
シンジャールのアミール
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヌールッディーン・アルスラーン・シャー1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イッズッディーン・マスウード2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヌールッディーン・アルスラーン・シャー2世
 
ナースィルッディーン・マフムード
 

参考文献

  • 下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1982年
  • Steven Runciman, A History of the Crusades Vol.II, Cambridge University Press, 1954.

ザンギー朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/01 00:41 UTC 版)

ゴールドサンドイッチガラス」の記事における「ザンギー朝」の解説

12世紀前半のザンギー朝下のシリアでは「金箔入りガラス瓶」が発見されている。

※この「ザンギー朝」の解説は、「ゴールドサンドイッチガラス」の解説の一部です。
「ザンギー朝」を含む「ゴールドサンドイッチガラス」の記事については、「ゴールドサンドイッチガラス」の概要を参照ください。

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