ファーティマ朝の滅亡とは? わかりやすく解説

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ファーティマ朝の滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 21:59 UTC 版)

ファーティマ朝」の記事における「ファーティマ朝の滅亡」の解説

12世紀後半に入ると、幼弱な者がカリフ地位に就くようになり、宰相地位をめぐる軍人たち争い一切抑え失って政治はますます混乱した。さらにファーティマ朝衰退乗じシリア地方激しく争うイスラム勢力ザンギー朝と、エルサレム王国などの十字軍国家エジプトへの侵攻介入をはかるようになっていった。 1163年ファーティマ朝有力者同士宰相位を巡る争い際し一方要請受けたザンギー朝ヌールッディーンは、部下クルド人将軍シールクーフエジプト派遣した1164年シールクーフカイロ入ったが、エルサレム王アモーリー1世介入によりシリアへと撤退余儀なくされた。シールクーフエルサレム王国その後エジプトへの介入繰り返し1169年最終的にシールクーフエルサレム王国軍を追ってカイロ入城した1168年カリフ援軍要請によりシールクーフエジプト入りカリフスンナ派である彼を宰相任じたが、シールクーフはそのわずか2ヵ月後の同年3月23日急死しかわってサラーフッディーン宰相就任したサラーフッディーン一切実権もたないカリフになりかわってエジプト政治取り仕切り外来シリア軍に対して反乱起こしたファーティマ朝黒人奴隷軍団撃破しカリフ宮廷勢力振るっていた黒人宦官殺害して政権固めた。さらに、自身親族マムルークイクター授与しザンギー朝式の国制導入しイスマーイール派法官カーディー)を追放してスンナ派法官すげ替えるなど、体制切り替え進めた1171年宮廷篭りきりだった最後のカリフ20歳若さ病死するのに前後してサラーフッディーンエジプトアッバース朝カリフ宗主権承認する宣言行いファーティマ朝終焉迎えたファーティマ朝消滅にともないかわってサラーフッディーンによるスンナ派王朝アイユーブ朝エジプト支配し、やがてシリアへと勢力広げてゆく。

※この「ファーティマ朝の滅亡」の解説は、「ファーティマ朝」の解説の一部です。
「ファーティマ朝の滅亡」を含む「ファーティマ朝」の記事については、「ファーティマ朝」の概要を参照ください。

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