ファーティマ朝の侵攻に関する分析
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「ファーティマ朝のエジプト侵攻 (914年-915年)」の記事における「ファーティマ朝の侵攻に関する分析」の解説
この侵攻は双方の勢力にとって多くの血の代償を払うことになった。ファーティマ朝軍は最初の軍事衝突の時だけで7,000人の死者と7,000人の捕虜を出し、二度目の軍事衝突ではフバーサの部隊に10,000人の死者が出たと言われている。一方で徴兵されたエジプト人の住民の死者は10,000人から20,000人に及び、イドリース・イマードゥッディーンはエジプト人の総死者数を50,000人に達したと述べている。 また、双方の陣営とも規律と兵卒たちの結束力の欠如に悩まされた。フバーサはカーイムに意見を求めることなく行動を繰り返し、何度か民間人に対する残虐行為に及んだ。さらに自身の戦場放棄が遠征の失敗を決定づけることになり、イフリーキヤへ戻った後にフバーサは処刑された。ファーティマ朝軍のいくつかの部隊も逃亡し、カーイムはファイユームで略奪を働いた兵士へ規律を課すのに大きな苦労を強いられた。アッバース朝側も逃亡や指揮官同士の争いを経験し、さらには多くのエジプト人がファーティマ朝の侵略者と進んで折り合いをつけようとしたため、アッバース朝の現地政府がカーイムと連絡を取っていた者たちに対して残忍な報復を行う結果となった。 しかし、戦略的にはフスタートを攻略できなかったことがファーティマ朝側の失敗を決定づけた。歴史家のヤーコフ・レフが指摘するように、エジプトの主要な行政と都市の中心であったフスタートは、「エジプト征服への鍵」であった。10世紀に実行されたいくつかのエジプトに対する侵略のうち、フスタートを占領した者だけが、たとえまだ国の大部分を制圧していなかったとしても成功を収めることになった。 ファーティマ朝軍の遠征は当時でも危険であると見做されていた。また、ファーティマ朝によるイフリーキヤの支配はまだ確実な状態であるとは言えず、絶えず反乱に悩まされていた。例として913年にシチリア島の総督による反乱が起こり、ファーティマ朝の海軍(英語版)が破壊されていた。10世紀にファーティマ朝の教宣活動を担っていたアル=カーディー・アル=ヌウマーン(英語版)は、カーイムは遠征へ乗り出すことに気乗りせず、遠征を延期させようと父親と口論さえしたと記録している。歴史家のマイケル・ブレットによれば、ファーティマ朝の侵攻の失敗は、「遠征軍が意図せずして内陸部の深くまで踏み入り、エジプトの首府からナイル川で隔てられた河岸の砂漠において背後で帝国(アッバース朝)の軍隊を呼び寄せることが可能であった守備隊に直面した」ことが主な原因であった。ヤーコフ・レフは、969年に最終的なエジプトの征服を達成する前の数年間にファーティマ朝がエジプトにおける潜入工作や入念な軍事的準備を行っていたことと比較すると、最初のファーティマ朝の侵略が不安定なものであったことはより明らかであると指摘している。 19世紀のオランダの東洋学者のミヒール・ヤン・ド・フーイエ(英語版)は、イブン・ハルドゥーンの歴史書の一節に基づき、ファーティマ朝を生み出した運動(イスマーイール派)の分派であるバフライン(英語版)(アラビア半島東部)のカルマト派について研究した。その中でフーイエは、両者の間に秘密裏の同盟が存在し、アッバース朝に対してカルマト派がイラクの大都市圏に近い拠点から攻撃を加え、一方でファーティマ朝が西方から攻撃を加えるという連携攻撃の計画が存在したとする見解を示している。実際にカルマト派は913年にバスラを包囲して襲撃したが、その戦力は弱体であり、最初のファーティマ朝によるエジプト侵攻や数年後に行われた二度目の侵攻の時期には活動していなかった事実があることから、連携攻撃が存在したとする見解は実際の出来事とは矛盾している。さらに、ファーティマ朝とカルマト派の分裂の起源に関する現代の研究では、両者の間の教義の相違と敵意、そしてカルマト派の根本的な反ファーティマ朝の傾向が明らかにされている。
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