ファーティマ朝、セルジューク、十字軍とは? わかりやすく解説

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ファーティマ朝、セルジューク、十字軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 10:11 UTC 版)

ダマスカス」の記事における「ファーティマ朝、セルジューク、十字軍」の解説

970年カイロにいたファーティマ朝カリフダマスカス支配取り戻す。これがこの都市波乱の時代幕開けだった。ファティマ軍の主力をなすベルベル人軍隊は、市民の間で非常に不評買ったシリアにおけるカルマト派時にはトルコ人軍隊存在は、ベドウィンからの絶え間ない圧力増やした978年から短い間、ダマスカスはイザッディン・アル・カッサムの指導市民軍保護の下で自治行っていた。しかし、グータ・オアシスはベドウィン侵入を受け、トルコ率い戦役の後、この都市は再びファティマ朝支配屈する1029年から1041年までは、ファーティマ朝カリフ・ザーヒルの下、トルコ人軍事指導者アヌシュタキンがダマスカス総督となり、かつての栄光取り戻すため大い働いたこの期間は、ダマスカスブロックインスラ集合住宅)で特徴付けられるギリシア・ローマ風の都市計画から、より親しみやすいイスラム風の都市へとゆっくりと変わっていく時期であったようだ。格子状直線大路は、狭い街路パターン変わり、ほとんどの住人が、夜に犯罪者徴税から守るための重い木戸閉鎖されるハラートの中にむようになった。 11世紀後半セルジューク朝到来により、ダマスカスは再び独立国家首都になる。1079年から1104年まではセルジューク朝およびシリア・セルジューク朝支配されたが、それから別のトルコ王朝ブーリー朝支配される。彼らは1148年第2回十字軍攻城戦にも耐え抜いた1154年にはダマスカス十字軍宿敵アレッポザンギー朝有名なアターベク・ヌールッディーンに征服される。彼はダマスカス首都としたが、彼の死後アイユーブ朝エジプト支配者サラーフッディーンサラディン)に奪われ、その首都となる。サラーフッディーン城砦再建し彼の統治下では郊外あたかも都市そのもののごとく広大であったという。イブン・ジュバイルの記すところによると、サラーフッディーン時代にはダマスカス多く大学があり「乱されることのない研究隠遁」を求めて世界中から集まる勤勉な若者知識求める者を歓迎したという。アイユーブ朝サラーフッディーン死後内紛徐々に衰退する。 この当時ダマスカス鋼十字軍の間で伝説的な名声を得、今日なお模様有る鋼はダマスカス呼ばれるビザンチン中国つくられる紋様のある絹織物は、シルクロードの西の終点ダマスカス経由して運ばれたため、英語ではダマスク織という言葉生まれた

※この「ファーティマ朝、セルジューク、十字軍」の解説は、「ダマスカス」の解説の一部です。
「ファーティマ朝、セルジューク、十字軍」を含む「ダマスカス」の記事については、「ダマスカス」の概要を参照ください。

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