ファーティマ朝によるファイユームと上エジプトの占領と膠着状態
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 12:34 UTC 版)
「ファーティマ朝のエジプト侵攻 (919年-921年)」の記事における「ファーティマ朝によるファイユームと上エジプトの占領と膠着状態」の解説
カーイムはアレクサンドリアで物資の調達に追われる状況となり、その結果として914年の時と同じ戦略の採用を決めた。そして7月30日にアレクサンドリアを発ち、ギーザを迂回して食糧と活動拠点を確保することができる肥沃なファイユーム・オアシスを占領した。そこでカーイムはエジプトの正当な支配者であるかのように振る舞い、前回の侵攻時と同様に住民からの徴税を始めた。 アレクサンドリアには指揮官としてファトフ・ブン・タアラバを残し、サマルの艦隊による攻撃から都市の港を守るために多数のカタパルト(manjanīqとʿarrāda)を作るように命じた。しかし、ムウニスはこれらの動きに対抗しなかった。これはムウニスの軍勢にはファーティマ朝の軍勢に野戦を挑むだけの十分な能力がなく、兵士に俸給を支払うことも困難な状況に直面していたからである。さらに、ムウニスが上エジプトに派遣していた軍司令官が921年の春に死去すると、クターマ族はコプト教の主教座があるアル=ウシュムーニーヤに至るまでの上エジプト全域を易々と占拠した。これによってカーイムの徴税対象地域が拡大しただけでなく、占領した地域からフスタートに向かう穀物の供給も断ち切った。 両者は丸一年のあいだ表立った対立を避け、実力行使よりも外交戦と宣伝戦を繰り広げた。ムウニスはカーイムがアッバース朝のカリフに服従するのであれば、安全保障(amān)を認め、ファーティマ朝をかつてのアグラブ朝のようにイフリーキヤの自治権を有する支配者として承認すると提案した。 これに対してカーイムは、イスラームの開祖ムハンマドの正当な後継者として普遍的な支配権を有するとするファーティマ朝の従来からの主張を繰り返した手紙の中でこの提案を拒否した。また、フスタートの住民に「西方の住民」を見習って正当なファーティマ朝のダーワ(英語版)(宣教)に従うように強く勧める長編詩の断片も残されている。ムウニスはこの詩の写しをバグダードへ送り、そこで学者のアブー・バクル・アッ=スーリー(英語版)は詩に対する返答を作成するように求められた。このファーティマ朝の主張に対するスーリーの当意即妙な反論は大いに成功したと認められ、アッバース朝のカリフのムクタディルはスーリーに10,000ディナールの報奨金を与えた。 カーイムはムハンマド・アル=マーザラーイーとの書簡のやり取りも続けており、マーザラーイーからはフスタートの守備隊の弱点について知らされていたが、一方でアッバース朝の新しい援軍が到着するまで攻撃を遅らせようとする裏表のある駆け引きが行われていた可能性もある。これと並行してカーイムはイスラーム世界全体の支配権を有するとするファーティマ朝の主張を認めるように訴える書簡をイスラームの二つの聖地であるメッカとマディーナへ送ったが、カーイムの主張は無視された。
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