エジプト侵攻とは? わかりやすく解説

エジプト侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/24 06:03 UTC 版)

パルミラのエジプト征服」の記事における「エジプト侵攻」の解説

エジプト遠征が行われた時期については論争がある。東ローマ帝国歴史家ゾシモスはナイススの戦い以降クラウディウス・ゴティクス帝の死の前すなわち270年夏としている。それに対しワトソンなどの歴史家はゾシモスを否定し270年10月とする説を提唱している。ワトソンは、ゼノビア遠征実施多分に日和見的な部分があり、8月クラウディウス・ゴティクス死去した報を受けて侵攻決断したとしている。 エジプトでは、パルミラ軍が東の国境線到来すると共に混乱起きたパルミラへの支持者反対者の間で、社会真っ二つ割れたエジプト現地パルミラ軍への協力者出た上に、ローマ帝国エジプト長官テナギノ・プロブスは、海賊(おそらく当時レバント沿岸襲撃していたゴート族討伐のため海に遠征出ており不在だった。ゾシモスによればパルミラ軍にはエジプト将軍ティマゲネスが加わっていた。ザブダス率いパルミラ軍は7万人上りエジプトローマ軍5万人を破った。この勝利の後、パルミラ帝国5000人の守備隊残して本軍引き上げさせた。 11月前半事態知ったテナギノ・プロブスが急ぎエジプト帰って軍勢集めパルミラ守備隊駆逐しアレクサンドリア奪回した。しかしザブダス直ちエジプト戻ってきた。ザブダス速やかにアレクサンドリアを再制圧した。おそらくこれには、地元住民支援もあった。プロブス南方内陸逃れたプロブス逃げ込んだバビロン要塞最後の戦闘が行われた。当初ローマ軍優勢だったが、ティマゲネスが地勢知識生かしてローマ軍背後突き破ったプロブス自殺して果てた『ローマ皇帝群像』には、ブレムミュアエゼノビア同盟者として参加していたという記述があり、ガリーK・ヤング268年ブレムミュアエのコプトス攻撃記録がパルミラ・ブレムミュアエ同盟証拠であると述べている。

※この「エジプト侵攻」の解説は、「パルミラのエジプト征服」の解説の一部です。
「エジプト侵攻」を含む「パルミラのエジプト征服」の記事については、「パルミラのエジプト征服」の概要を参照ください。

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