キレナイカの奪回
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 12:34 UTC 版)
「ファーティマ朝のエジプト侵攻 (919年-921年)」の記事における「キレナイカの奪回」の解説
この失敗にもかかわらず、ファーティマ朝はすぐさまキレナイカの奪還を最初の目標とするエジプトへの再侵攻の計画を立て始めた。そして917年4月には18か月に及ぶ包囲戦の末にキレナイカの首府であるバルカ(英語版)を降伏させ、最初の目標を達成した。バルカの住民に対する処罰は厳しく、多くの住民が大挙してアレクサンドリアへ逃れた。アッバース朝のエジプト総督であったズカー・アッ=ルーミー(英語版)はアレクサンドリアの守備隊を増強した。 エジプトでは9世紀初頭以降バグダードからの支配に反発するようになっていたため、ファーティマ朝は確実に同調者の確保に成功していた。ズカーはファーティマ朝のカリフであるマフディーやその息子のカーイムと連絡を取り合っていた何人かの人々を処刑しなければならなかった。
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