キレナイカの征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 12:36 UTC 版)
「ファーティマ朝のエジプト侵攻 (914年-915年)」の記事における「キレナイカの征服」の解説
タラーブルス スルト アジュダービヤー バルカ リビアにおける軍事行動の関連地の地図 エジプトに対する遠征はフバーサ・ブン・ユースフの率いる軍隊がタラーブルスを出発した914年1月24日に始まった。ファーティマ朝の軍隊は海岸沿いの道を進んだ。スルトとアジュダービヤーのアッバース朝の守備隊は戦わずしてこれらの町を放棄し、フバーサは2月6日にキレナイカの首府でエジプトへの玄関口にあたるバルカ(英語版)に入った。キレナイカの征服はファーティマ朝の国庫に入る歳入の見通しを広げるものだった。征服前のこの地域では地租(ハラージュ)から年間24,000ディナール、キリスト教徒のズィンミーが納める人頭税(ジズヤ)から年間15,000ディナールの歳入があり、さらに救貧税(ザカート)と十分の一税(ウシュル)による歳入がアッバース朝にもたらされていた。 15世紀のイスマーイール派の歴史家であるイドリース・イマードゥッディーン(英語版)によれば、バルカの人々は戦うことなく避難した。一方でスンニ派の史料はファーティマ朝軍が住民に対して残虐行為を働き、地元の商人たちから資金を強奪したと説明している。フバーサは地元の鳩を扱う商人がアッバース朝のために見張り用の鳩を使用していると疑い、商人たちにこれらの鳥を焼いて食べるように強制した。また、地元のアラブ人の民兵組織(ジュンド)の構成員にファーティマ朝の軍隊へ加わるように迫り、町の人々に多額の財政的負担を課した。さらに、9年前にカリフとなる前のマフディーがイフリーキヤへ向かっていた道中でマフディーに対し待ち伏せして強盗に及んだマザータ族の二人の首領を処刑し、その息子たちも殺害した。首領の家族の女性たちは奴隷として売られ、財産も没収された。 ファーティマ朝の軍隊がバルカに到着したという知らせはエジプトのアッバース朝の現地政府による軍隊の派遣を招くことになった。フバーサの軍隊はイフリーキヤで補充された新しい部隊によって強化され、続いて3月14日にバルカの郊外で起こった戦闘でアッバース朝軍を破った。
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