キレナイカ・ソマリランド総督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 15:14 UTC 版)
「ロドルフォ・グラツィアーニ」の記事における「キレナイカ・ソマリランド総督」の解説
1920年代、グラツィアーニは北アフリカにある三つの植民地州(トリポリタニア・フェザーン・キレナイカ)への赴任命令を受け、植民地統治に従事した。北アフリカの植民地州ではサヌーシー戦争(英語版)以来の反ヨーロッパ運動が継続していたが、植民地軍を率いてサヌーシー教団の鎮圧に尽力した。騎兵中心のベドウィンに対抗すべく機械化戦力を砂漠戦に導入し、周辺地域からの補給を寸断する為のバリケード(英語版)を国境沿いに建設させた。国境管理や治安部隊の指揮だけではなく、植民地州各地に強制収容所を建設して反乱に協力した現地住民を収監する計画も実施している。収容所では収監された政治犯の一部が死亡したと見られているが、死亡した囚人の大部分は餓死や処刑によると見られている。グラツィアーニの治安回復作戦は非常に徹底しており、抵抗が最後まで続いた内陸部のフェザーンでは「フェザーンの屠殺者」との渾名で恐れられた。 1930年3月、陸軍中将に昇進していたグラツィアーニは功績を評価されて植民地州の内の一つである伊領キレナイカ(英語版)の総督に任命、期待に応えて翌年にサヌーシー教団の指導者オマル・ムフタールを捕虜にした。ムフタールの処遇について上官であるピエトロ・バドリオ陸軍元帥の要求した略式処刑を拒否し、正式な軍事裁判を行った。同年9月16日、停戦合意違反による有罪判決を経てムフタールを絞首刑とした。治安回復の目処をつけ、イタリア国内では「リビアの調停者」として国民的な人気を博し、1932年には陸軍大将へ昇進した。 1933年12月31日、トリポリタニア・フェザーン・キレナイカが新たに伊領リビア(英語版)として統合された事に伴ってキレナイカ総督は実権を持たない名誉職となり、一旦イタリア本国に帰還した。1935年3月6日、今度は東アフリカの植民地州で伊領エリトリアと隣接する伊領ソマリランド(英語版)の総督に任命された。
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