略式処刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:33 UTC 版)
「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「略式処刑」の解説
1945年4月28日、第52ガリバルディ旅団は数十名の民兵からなる無名の小規模組織でしかなく、司令官のピエル・ルイジ・ステーレ子爵は思いがけない重大な責務を前にして何らかの上部組織に指示を仰ごうとした。やがて最初に訪れたのがCLNAIから派遣された「ヴァレリオ大佐」と名乗る男で、部下を引き連れて旅団に捕らえられた面々の身柄引き渡しを要求した。 通説においてはこのヴァレリオ大佐はワルテル・アウディージョ(英語版、イタリア語版)というイタリア共産党のメンバーで、別の党員ランプレーディと一緒に党書記長トリアッティの右腕であったルイージ・ロンゴ副書記長の命令を受け、ミラノからコモ湖に赴いたとされている。 ただしアウディージョが実行犯であったかについては当初から疑問が持たれている。現在では歴史学者の多くがアウディージョは単なる身代わりであるとみなし、おそらくはルイージ・ロンゴ自身が「ヴァレリオ大佐」であろうと考えられているが、真犯人については他にも諸説が存在する。 旅団は身柄引き渡しには応じたものの、略式処刑や民間人の殺害については戦争犯罪であるとして反対したが、アウディージョとCLNAIの兵士はムッソリーニとペタッチ以外の戦犯をドンゴで裁判もなく即時処刑した。残されたムッソリーニはペタッチと共にミラノ方面へ車両で移動させられ、暫くの間ジャコモ・デ・マリアという人物の所有する民家に幽閉されている。程無くしてCLNAIはムッソリーニについても略式裁判による即時処刑を決定、ムッソリーニはミラノ近郊のメッツェグラ市の郊外にあるジュリーノ・ディ・メッツェグラに設置された処刑場へ護送された。 1945年4月28日の午後4時10分、「ヴァレリオ大佐」が所持していたフランス製短機関銃のMAS-38でペタッチと共に銃殺され、61年間の人生に幕を下ろした。1996年、処刑を見届けたランプレーディのイタリア共産党への報告文が公開された。報告書でランプレーディはムッソリーニは動じず「心臓を撃て」と潔い態度で死を受け入れたと証言している。
※この「略式処刑」の解説は、「ベニート・ムッソリーニ」の解説の一部です。
「略式処刑」を含む「ベニート・ムッソリーニ」の記事については、「ベニート・ムッソリーニ」の概要を参照ください。
- 略式処刑のページへのリンク