社民党政権(1919年-1920年)
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「ドイツ社会民主党」の記事における「社民党政権(1919年-1920年)」の解説
社民党が可決させたこのヴァイマル憲法とヴェルサイユ条約によってヴァイマル共和政の基本体制は築かれた。しかし保守・右翼及び共産党以下極左はヴァイマル共和政など認めなかった。 1919年4月にはバイエルンで共産党が革命を起こし、同地の社民党政権を追放してバイエルン・レーテ共和国を勝手に樹立した(ソビエト連邦のウラジーミル・レーニンの「世界革命」に向けての工作でもあった)。事態を危険視した社民党政権のノスケ国防相は軍や義勇軍の動員を決定。ミュンヘンへ攻め上らせてレーテ共和国を叩きつぶした。出動した軍や義勇軍は手当たり次第に共産党員を殺戮したため、他の社会主義政党からの社民党の評判はますます悪くなった。特に国防相ノスケは「人殺しノスケ」と呼ばれた。 一方、軍や義勇軍ももともと反民主的な右翼が多いので自分達に頼りっきりの社民党政権をなめるようになった。それが事件となって表れたのが1920年3月にヴォルフガング・カップやヴァルター・フォン・リュトヴィッツ将軍の指揮の下に義勇軍によって起こされたカップ一揆であった。社民党のノスケはこれも軍を動員してつぶそうとしたが、義勇軍を同志と見る軍の軍務局長ハンス・フォン・ゼークト将軍は「国防軍同士で争うことはできない」と鎮圧を拒否した。焦った社民党政権はベルリンを捨てて逃亡した。その後、社民党政権は労働組合にゼネストを呼びかけてベルリンを占拠した反乱軍の政治を機能不全に陥らせて崩壊させ、ベルリンに戻ることができたが、責任を取ってノスケが辞職することとなった。後任の国防相は民主党のオットー・ゲスラーが就任した。ゲスラーは以降8年間国防相の地位にあった。社民のノスケは軍を完全に政府の支配下に置くことを目指していたが、社民よりは保守的な民主のゲスラーは必ずしもそれを目指さなかったので軍がヴァイマル共和政の中で半ば独立した大勢力になってしまうことを阻止できなかった。 社民党政権と極左との対立も続いた。カップ一揆の際の労働者のゼネストには共産党も参加していたが、カップ一揆の鎮圧後に社民党がゼネストの解除を求めても共産党は応じなかった。共産党はゼネストから革命を狙って動いたのでザクセンからテューリンゲンに至る中部地域でまたしても「レーテ共和国」が樹立されてしまった。社民党政権はふたたび軍を動員してこれを潰した。この時数百人の人々が略式処刑され、バイエルンと同じく共産党の赤色テロとその復讐の軍の白色テロが吹き荒れることとなった。バイエルンもそうであるが、軍が鎮圧した地域は事実上の軍政下に置かれてしまい、社民党政権の統制下から離れてしまうという悪循環もあった。 国民は社民党とヴァイマル共和政に嫌気がさし、極左志向になるか帝政懐古する者が増えた。1920年6月6日の国会選挙はそれが端的に示された。この選挙ではヴァイマル共和派が軒並み惨敗した。社民党は第一党は維持したものの102議席に減らした。社民党と連立を組む民主党も75議席から39議席に落とし、中央党も91議席から64議席に落とした。一方、極左陣営(プロレタリア独裁志向)の独立社民党は84議席獲得して第二党に躍進、初めて選挙に出た共産党も4議席を獲得した。保守・右翼陣営(帝政復古志向陣営)も躍進し、ドイツ国家人民党(DNVP)が71議席を獲得して第三党、ドイツ人民党(DVP)が65議席を獲得して第四党の地位を確立した。社民党のヘルマン・ミュラー内閣は総辞職せざるを得なくなった。革命以来一貫して政権の中枢にあった社民党が、はじめて政権から降りることとなった。
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