国民議会召集
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1919年1月19日の国民議会(Nationalversammlung。この時のみの議会名称。ヴァイマル憲法制定後には議会名はReichstag(国会)に戻る)選挙が行われた。選挙戦中、共産党が議会政治反対の立場からボイコット運動を展開していたが、大多数の国民は相手にせず、投票率は82%以上を記録した。社民党は37.9%の得票を得て163議席取った。目指していた単独過半数には届かなかったが、議会の第一党だった。他に中央党が19.7%の得票を得て91議席、民主党(DDP)が18.5%の得票を得て75議席を獲得した。極左の独立社民党は7.6%の得票で22議席しか取れなかった。 スパルタクス団蜂起の影響で国民議会はベルリンではなく、2月6日にヴァイマルにおいて招集された。国民議会ではまず社民党党首エーベルトが大統領に指名された。これには社民党以外の政党も多くが支持票を投じている。さらに社民党と中央党と民主党の三党連立(以降この三党はヴァイマル共和政下で連立を組む事が多くなり「ヴァイマル連合(ドイツ語版)」と呼ばれることとなった)の下、社民党のシャイデマンが首相に就任した。 社民党政権は憲法の制定に取り掛かり、委員会で議論を重ねた末に1919年7月末に国民議会の本会議で世界で最も民主的と言われるヴァイマル憲法を可決させた。さらに社民党政権は連合国から突きつけられていたドイツに激しい迫害を加える内容のヴェルサイユ条約を締結するしかないと判断し、中央党とともに6月22日の議会でこの条約の承認決議を行った。この際にシャイデマン首相はヴェルサイユ条約に反対したため、首相を辞職した。また民主党も反対して連立から離脱している(この年の秋には復帰する)。 また社民党の見解では、この国民議会の招集をもって労兵評議会の存続の正統性はなくなったということであるから、これ以降ノスケ国防相は兵士評議会の排除に乗り出した。左翼の根城になっている一部の場所を除いて兵士評議会は解体され、かつての軍隊の命令系統が復活した。
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