ヴァイマル共和政下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/18 17:56 UTC 版)
「自由州 (ドイツ)」の記事における「ヴァイマル共和政下」の解説
第一次世界大戦末の1918年11月7日から8日にかけて、独立社会民主党のクルト・アイスナーはバイエルン王国のミュンヘンで労兵レーテの大集会を組織し、王政廃止と共和制の導入を宣言して暫定首相に任命された。翌11月9日にベルリンでドイツ共和国宣言(ドイツ語版)が発せられ、ドイツ帝国内の諸邦で君主制の廃止と共和制への移行が進んでいった。1919年8月11日に制定されたヴァイマル憲法では、第17条で「すべての領邦は自由州憲法を定めなければならない („Jedes Land muss eine freistaatliche Verfassung haben“) と規定され、共和制に移行した諸邦のほぼすべて、具体的にはプロイセン、ザクセン、ブラウンシュヴァイク、アンハルト、オルデンブルク、 メクレンブルク=シュヴェリーン、メクレンブルク=シュトレーリッツ、ヴァルデック=ピルモント、リッペ、シャウムブルク=リッペが自由州を称した。 これ以外の州は、人民州 (Volksstaat、ヴュルテンベルクおよびヘッセン) や共和国 (Republik、バーデン共和国) を称した。テューリンゲン地方は小邦が乱立しており一部は自由州を称していたが、1920年にバイエルン自由州に合流したコーブルクを除く諸邦が合同してテューリンゲン州(Land Thüringen)となった。一方、1929年にヴァルデック自由州がプロイセン自由州に統合された他、1934年にはナチ党による強制的同一化によりメクレンブルク=シュヴェリーンとメクレンブルク=シュトレーリッツが統合されてメクレンブルク州(Land Mecklenburg)となった。
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