ヴァイマル共和政と第三帝国
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「デトモルト」の記事における「ヴァイマル共和政と第三帝国」の解説
レオポルト4世が爵位を放棄した1918年11月12日から国家社会主義者による権力掌握がなされた1933年2月7日までの間、社会民主党 (SPD) が政治的権力を行使し、ハインリヒ・ドラーケが4期以上にわたってデトモルトにおける州行政の首相を務めた。 ヴァイマル共和制の経済的な問題を背景に左右の過激政党が勢力を著しく拡大し、SPDは州議会における絶対多数を失った。NSDAPのリッペ地方グループは1923年に創設された。1933年にナチスは州選挙に全力を投入し、アドルフ・ヒトラーは政治集会で 16回演説を行った。ナチスは1933年1月15日のリッペでの選挙に勝利するため多くの有望な新人を投入した。この選挙は国際的な関心を惹いた。ヒトラーを含め国家社会主義の指導者たちは、一堂に会し、権力掌握を思わせる示威行動をこの地で初めて行った。NSDAP 39.5 %、SPD 30.2 %、KPD 11.2 % の票を獲得した。NSDAP、DNVP、DVPは、リッペ州議会で連立与党を形成した。この街は1933年にはすでに共産主義者や労働組合役員を逮捕し、その一部を殺害するといった「強制的同一化」を始めた。ナチスは、ドイツの他の地域でそうであったようにリッペにおいても労働組合組織を壊滅させ、州に恐怖政治を布いた。 ナチス政権に対する最も有名なレジスタンス運動家がフェリックス・フェーヒェンバッハである。デトモルトのSPD機関紙「フォルクスブラット」の編集者であった彼はナチスに対抗する記事を執筆した。「ナチ=ユースケン」という偽名で起草された批評は強烈な敵愾心を引き起こした。彼は1933年3月11日に逮捕され、1933年8月7日にダッハウ強制収容所への移送途中、デトモルトとヴァールブルクとの間のクライネンベルクの森で「逃走中に」射殺された。フェリックス・フェーヒェンバッハの墓はリムベックのユダヤ人墓地にある。 1938年11月10日「水晶の夜」にシナゴーグが全焼し、国家社会主義者の弾圧によってユダヤ系デトモルト市民 162人が命を落とした。リッペのユダヤ人 600人のほとんどが絶滅収容所に収容された。それ以前にドイツを離れることができたのはわずか 52人だけであった。移送は1941年12月13日に始まり、まず 25人がリガに送致された。2回目の移送では1942年3月31日に 34人のユダヤ人がワルシャワ・ゲットーに送られたが、1942年7月11日には7人がアウシュヴィッツ絶滅収容所へ直接送られた。リッペからの最後の移送では 79人のユダヤ人がテレージエンシュタットに送られた。 アルフレート・マイヤーは北ヴェストファーレン大管区指導者で、リッペの州総督(ドイツ語版、英語版)であり、ユダヤ人に対する計画的なジェノサイドについて責任がある。リッペにおけるナチスの最高指導者はアドルフ・ヴェッダーヴィレであった。彼はNSDAPのクライスライターおよびリッペの国務大臣代理として統治した。だが、最も血に汚れた手の持ち主は疑いなくユルゲン・シュトロープである。彼は1895年にデトモルトの警官の息子として生まれた。シュトロープは1932年にナチスに入党し、急速にキャリアを積み重ねていった。やがて親衛隊少将に昇進し、1943年4月19日にワルシャワ・ゲットの反乱蜂起の鎮圧を命じられた。この時、シュトロープ自身の証言によれば 56,000人以上のユダヤ人を殺害した。 第二次世界大戦中、デトモルトが爆撃の標的となることはほとんどなかった。1945年4月1日にアメリカ軍がトイトブルクの森に侵攻し、1945年4月2日の復活祭の月曜日から、特に街道の交差点や周辺家屋が榴弾の砲撃を受けた。4月4日の19時頃、アメリカ軍はバンデル通り、ハンス=ヒンリヒス通り、シラー通りを通って戦車で市内に入場し、夜までに全域を占領した。国家社会主義の指導者は逃亡したため、占領軍の司令官は政庁舎とデトモルト市庁舎の整備を行い、早くも4月5日にはクリンゲンベルク兄弟社のオーナーであったアレックス・ホフマンを市長に据えた。彼の主たる業務は、何よりもまず、占領軍の命令を遂行することであった。わずか数日後、アメリカ軍は撤退し、指揮権はイギリス軍に移された。移行期にデトモルト飛行場は補給基地に改造された。このため滑走路は鉄板で補強され、延長された。重量の重い貨物輸送機が分刻みで離着陸を行った。冷戦時代、本市にはイギリス陸軍ライン軍団の第20機甲旅団(アーマード旅団)の兵舎と単に「ホーバルト兵舎」とも呼ばれるヘリコプター用飛行場が置かれた。後者は後に垂直離着陸機ホーカー・シドレー ハリアーも利用した。イギリスは1995年7月に兵舎と飛行場をデトモルトに返還した。
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