ヴァイマル共和国軍時代
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「クラウス・フォン・シュタウフェンベルク」の記事における「ヴァイマル共和国軍時代」の解説
音楽家や建築家を目指した時期もあったクラウス・フォン・シュタウフェンベルクだったが、最終的には軍人の道を志し、1926年4月1日にバイエルン州バンベルクに駐留するヴァイマル共和国軍第17騎兵連隊に入営した。シュトゥットガルトに駐留する第18騎兵連隊ではなく、バンベルクの第17騎兵連隊に志願したのは、この連隊がヴェルサイユ条約後に縮小された既存の連隊を合併させて作られた騎兵連隊であり、その中には伯父ベルトルトが大佐を務めていた旧バイエルン重騎兵連隊も含まれており、その縁故を期待したためと思われる。しかし一族からは「高位の貴族が共和主義の軍隊に仕えるとは何事」と不評であったという。 1927年8月18日には伍長級士官候補生(Fahnenjunkergefreiter)となった。1927年10月から1928年8月までドレスデンの歩兵学校に在学して士官候補生としての訓練を受けた。さらに1928年10月から1929年8月にかけてはハノーファー騎兵学校に入学した。将校任官試験に騎兵の首席で合格し、1930年1月1日に少尉(Leutnant)に任官した。 1930年11月15日にニナ・フォン・レルヒェンフェルト(Nina Freiin von Lerchenfeld)男爵令嬢と婚約。彼女の父グスタフ・フォン・レルヒェンフェルト男爵(Gustav Freiherr von Lerchenfeld)はかつてバイエルン王室の侍従長だった人物でフォン・シュタウフェンベルクが所属する第17騎兵連隊の将校をよくもてなしていた。その縁で二人は知り合うことになった。1933年9月にバンベルクで挙式した。 1930年11月から1931年2月にかけてはポツダムで迫撃砲の研修を受け、バンベルクに戻った後に第17騎兵連隊の迫撃砲部隊の指揮官となった。 フォン・シュタウフェンベルクは気さくで率直で魅力のある人物だったので、会話において主導権を握る事が多かったという。ある同僚の将校は「かなり大勢人が集まっているときでさえ、彼の姿を見過ごすことはあり得なかった。そのつもりがなくても、彼はいつも人の輪の中心だった。彼からは人を惹きつけ、納得させ、信頼感を与える力が発していた」と証言している。また彼の上官の騎兵大隊長は1930年に彼について「軍事的能力がある事、知的に優れている事を自覚しており、ときに人を食ったような皮肉っぽい態度を取る事がある。しかしそれで相手が感情を害する事はない」と書き留めている。上官からも仲間たちからも厚い信頼を寄せられていたフォン・シュタウフェンベルクは、何年にもわたって連隊の将校クラブの商務も担当していた。また連隊の名誉法廷構成員にも選出されている。 ヴァイマル共和政の時代、ドイツは政治的に混乱した時期が続いたが、フォン・シュタウフェンベルクは極端な政治心情はあまり口にしなかったという。しかし他の多くの将校たちと同様に彼も保守的な愛国者であり、ヴェルサイユ条約破棄と強大なドイツ陸軍の再建を願っていた。もっとも彼はどんな政府であれ、軍人は国を守らなければならないという自負心を強く持っており、ヴァイマル共和政にも忠実であった。ヴァイマル共和国の黒・赤・金の旗を嘲る同僚があれば反論を行っていた。この点は他の多くの将校たちと異なった点だった。
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ヴァイマル共和国軍時代
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「ヴィルヘルム・カイテル」の記事における「ヴァイマル共和国軍時代」の解説
第一次世界大戦の敗戦後、義勇軍(フライコール)の活動に参加。またヴェルサイユ条約によって総人員10万人、将校は4000人にまで制限されたヴァイマル共和国軍 (Reichswehr) の将校に選び残された。彼の事務能力の高さがうかがわれる。 ヴァイマル共和国軍ではまず第10旅団参謀、ついで1920年から1922年までハノーファーの騎兵学校の戦術教官となる。さらに1922年から1925年にかけてヴォルフェンビュッテルで第6砲兵連隊隷下の第7中隊長を務めた。 ヴァイマル共和国軍はヴェルサイユ条約で参謀本部を置く事を禁止されていたが、「兵務局(Truppen amt)」と名前を偽装して事実上参謀本部を復活させた。カイテルもこの兵務局に配属となり、1925年から1927年には兵務局の部署のひとつ教育部(T4部)に配属され、「東部国境守備隊」の教育と軍備を担当した。ついで1927年から1929年にかけてミンデンで第6砲兵連隊隷下の第2大隊長を務めた。 1929年10月には兵務局に戻り、陸軍編成部長に就任した。カイテルはヴェルサイユ条約により様々な制限が課せられていたドイツ軍の軍拡の逃げ道を模索した。武装民兵集団の「国境警備隊」に大量の武器を提供して名目上軍の武器にならぬようにしたり、スペイン・オランダ・スウェーデン・@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}日本[要検証 – ノート]など比較的中立的かつ生産設備が整った外国で航空機や戦車やUボートの建造を行った。 独ソ秘密軍事協力を行っていたソ連とも関係を深めようとした。ソ連で軍事演習を行わせ、また1931年にはカイテル自身がソ連を訪問している。「共産主義の偉大さ」を見せつけるためにソ連側が一方的に設定したコルホーズなどのツアーコースを回されるだけであったが、カイテルは共産主義に感化されたところがかなりあったらしく、後に「もう少しでボルシェヴィキになって帰ってくるところだった」などと語っている。
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