ヴァイマル憲法成立
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「ヴァイマル共和政」の記事における「ヴァイマル憲法成立」の解説
1月19日、予定通り国民議会選挙が行われた。共産党はボイコットしたものの、投票率は82.7%と高率だった。結果は、社会民主党(163議席)・中央党(91議席)・民主党(75議席)が多数を占めた。 2月6日からヴァイマルで国民議会が開催され、2月11日の大統領選挙(ドイツ語版、英語版)でエーベルトが臨時大統領に選出された。続いて、社会民主党・中央党・民主党による連立政府が形成され、シャイデマンを首相に指名、2月13日、シャイデマン政権が成立した。これら3党は全議席数の8割を占め、きわめて安定な政権だった。この3党による連合はヴァイマル連合(ドイツ語版)と呼ばれる。 新政府がまずなすべきことは新憲法の制定だった。憲法の草案はエーベルト大統領の委嘱を受け、内相プロイスのもとで作成され、議会本会議・委員会での討論を経て若干の修正の後、7月末に本会議で圧倒的多数の賛成で可決された。この新憲法がヴァイマル憲法 (WRV: Weimarer Reichsverfassung) である。ヴァイマル憲法は8月11日に公布された。この憲法において大統領の権限の強い共和制、ドイツ帝国諸邦を基にした州(ラント)による連邦制、基本的人権の尊重が定められた。これが法制史における人権概念の萌芽とされており、後に制定された日本国憲法にも影響を与えている。 一方、ドイツが新しい議会と新憲法制定に邁進している間にも、国外では連合国がパリ講和会議において講和条約を策定していた。連合国間の折衝は4月で完了し、講和条件をドイツ代表団に提示した。この講和条約は慣例と異なり、敗戦国のドイツをまったく抜きにして講和条件が決められた他に、戦争の責任はもっぱらドイツとその同盟国にあると断定、巨額の賠償金をドイツに課していた。また、戦争責任者を連合国に引き渡すという前例のない条件も加えられていた。 講和条件の過酷さにドイツでは連合国に対する非難が吹き荒れたが、戦争を継続する余力がドイツにない以上受諾する以外に手は残されていなかった。6月22日、ドイツは議会で講和条約を承認した。しかし、シャイデマン首相は条約の内容に絶対的に反対であったため1919年6月20日に辞任、議会は新たにグスタフ・バウアーを新首相に選び、翌21日に発足した新内閣のもとで講和条約の処理が行われた。6月28日、新内閣の外相だったヘルマン・ミュラーを全権として、ドイツと連合国との間で、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間で講和条約(ヴェルサイユ条約)が結ばれた。このヴェルサイユ条約で、ラインラントへの連合軍駐屯、陸軍は10万人を上限とするなどの軍備の制限、植民地とエルザス=ロートリンゲン、上シュレージエンなどの割譲、ザール地方の国際連盟による管理化、ダンツィヒ(現・グダニスク)の自由都市化などの領土削減が行われた。また経済面でも連合国側の管理機関がドイツに設置される事になり、飛行機の開発・民間航空も禁止された。そして戦争責任はドイツにあることが定められた。中でもドイツを苦しめる事になるのが、多額となると見られる賠償金であった。この条約はドイツ国民に屈辱を与え、ヴァイマル政府に対する反感の元となった。
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