テレージエンシュタット
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テレージエンシュタットでは、第二次世界大戦中にナチス・ドイツがベーメン・メーレン保護領(チェコ)北部のテレージエンシュタット(チェコ名テレジーン)に置いていたユダヤ人ゲットーとゲシュタポ刑務所について記述する。テレージエンシュタットは、エーガー川を挟んで「大要塞」と「小要塞」と呼ばれる二つの地区からなっており、ゲットーは大要塞、ゲシュタポ刑務所は小要塞の方に置かれていた。
- ^ a b c d ラウル・ヒルバーグ著『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 上巻』(柏書房)332ページ
- ^ a b ウォルター・ラカー著『ホロコースト大事典』(柏書房)344ページ
- ^ a b ハンナ・アーレント著『イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』(新装版みすず書房)63ページ
- ^ a b c ラウル・ヒルバーグ著『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 上巻』(柏書房)331ページ
- ^ a b c d ヴォルフガング・ベンツ著『ホロコーストを学びたい人のために』(柏書房)118ページ
- ^ ハンナ・アーレント著『イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』(新装版みすず書房)64ページ
- ^ 『ホロコーストを学びたい人のために』132ページ
- ^ a b ラカー(2003)、p.346
- ^ アメリカ合衆国国立ホロコースト記念博物館の公式サイト「テレージエンシュタットの赤十字社訪問について」[1]
- ^ a b 『ホロコーストを学びたい人のために』130ページ
- ^ 『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 上巻』333ページ
- ^ 『ホロコースト歴史地図 1918-1948』210ページ
- ^ a b 『ホロコーストを学びたい人のために』133ページ
- ^ 『ホロコーストを学びたい人のために』124ページ
- ^ Australian International Justice Fund http://aijf.org/index.html
- 1 テレージエンシュタットとは
- 2 テレージエンシュタットの概要
- 3 脚注
テレージエンシュタット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/11 05:07 UTC 版)
1943年の逮捕から逃れられなかったデンマーク系ユダヤ人は、現在のチェコ共和国のテレジーン近くにあったテレージエンシュタット(Theresienstadt)へ送られていた。ドイツ側が移送の許可を出すまで時間がかかったが、連合国軍が接近していたため残された時間は短かった。最後には親衛隊の連絡将校のレンナウが何とかゲシュタポから許可を取り付けてきて、4月12日にフォルケ大尉指揮のバス23台、乗用車12台、オートバイとデンマーク人医師と看護婦を乗せたデンマーク側の救急車数台の輸送隊が出発した。 ドイツ国内の状況は今や危機的なものとなり、スウェーデン人運転手は行程が非常に危険なものとなるであろうと知らされていた。ソ連軍が道路を閉鎖しているという情報を知らされたスウェーデン外務省が最後の最後になって出発を止めようとしたが、輸送隊は出発していた。4月15日に輸送隊は423名のスカジナビア系ユダヤ人をテレージエンシュタットから収容し、デンマークへの危険な帰路につくことができた。帰路に爆撃を受けたばかりのドレスデンを通過したが、輸送隊は同じ日の夜に爆撃を受けたポツダムで一晩足止めを食った。輸送隊は4月17日に全員無事にパドボー(Padborg)に到着し、救出されたユダヤ人は翌日にフェリーでスウェーデンのマルメへ運ばれた。 「白バス」に対する最初の攻撃は4月18日に起こった。フリードリヒスルーのデンマーク人収容所が連合国軍機の攻撃を受けたことにより10台の車両が破壊され、運転手4名と看護婦1名が軽傷を負った。その後、このような上空からの攻撃が何度かあり、数人の死傷者がでた。
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