「小要塞」のゲシュタポ刑務所
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「テレージエンシュタット」の記事における「「小要塞」のゲシュタポ刑務所」の解説
「小要塞」(チェコ語:Mala pevnost、ドイツ語:Kleine Festung)は、エーガー川左側にある要塞の一部である。1940年初めからゲシュタポはここを刑務所として使用していた(ベーメン・メーレン保護領最大の刑務所の一つだった)。川の右側の「大要塞」(ドイツ語:Garnisonsstadt)の方にあったユダヤ人・ゲットーとは分離されており、全く無関係に存在した。32,000人の人々がここに投獄され、大抵の場合その後強制収容所へ移送された。2,600人ほどの人がここで処刑・餓死・病死などにより死去した。15,000人の子供がここに送られてきていたが、そのうち1,100人ほどが戦後まで生存した可能性がある。アントン・マロート(ドイツ語版)は「小要塞」の悪名高い看守だった。彼は55年間逃亡した後、2001年に最低100人の囚人をリンチ殺害したとされ、終身刑判決を受けた。 「小要塞」は捕虜収容所から脱走を図った戦争捕虜に対する刑務所としても使用された。戦後、長年にわたってオーストラリア政府とニュージーランド政府は彼らの軍人がテレージエンシュタットに送られていたことを認めていなかった。しかしオーストラリアのボブ・ホーク首相は1987年になって調査委員会を設置し、ここに収容されたと思われる古参兵に対して補償を行うことを命じた。オーストラリアのジャーナリストのパウル・リア (Paul Rea) は、1985年に作成したフィルム「Where Death Wears a Smile」でテレージエンシュタットでたくさんの連合軍兵士が殺されていたというセンセーショナルな申し立てを行った。これに対しては古参兵アレクサンダー・マクレルランド (Alexander McClelland) が著書「The Answer - Justice」の中で反論していた
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