「小熊和也」
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1972年(昭和47年)7月、チェは東京の山谷地区で福島県出身の日本人小熊和也(当時34歳)と知り合った。小熊は行き倒れに近い状態で病気にかかっていたので、チェは小熊を介抱するふりをして近づき、すぐに病院に入院させた。入院して10日後、親切にされた小熊は病院に見舞いに訪れたチェをすっかり信用した。チェは自分が船会社の社長であると身分を偽って、小熊が退院したら自分の会社で採用する、それを受け入れてくれるなら入院費一切を自分が負担すると持ち掛けた。小熊和也はこれを了承した。さらにチェは翌日、金錫斗とともに小熊の実家に赴き、小熊の両親には再び船会社の社長であると詐称して、戸籍が福島だと何かと不便なので東京に移してもらいたいと頼んで、両親に転籍を認めさせた。 その後チェは、小熊名義で顔写真だけを自分の顔に貼り替えた日本国旅券や運転免許証を取得して、法的にも完全な日本人「小熊和也」として行動した。彼が死去する1976年7月までの間に、日本、フランクフルト、パリ、香港、ソウルのコースで3回海外に渡航し、韓国・日本に跨るスパイ網の構築に努めたのである。1974年(昭和49年)5月、チェは土台人金錫斗を石川県鳳至郡能都町から密出国させて北朝鮮に連れて行き、約6ヶ月間スパイ教育を受けさせたうえで日本にもどし、資金調達や新たな工作員の獲得の任務を担わせた。同年12月、チェは戸籍横領の発覚を恐れて小熊和也本人の北朝鮮への拉致を金錫斗に命じた。 金錫斗は、その機会をうかがっていたが、小熊が1976年(昭和51年)7月に病死して死亡届が出されたので、これを断念した。チェは、在日韓国人に接近して韓国内に親戚はいないかと尋ね、韓国内にスパイを作ろうとしたり、日本国内では自衛隊や在日アメリカ軍に関する情報収集活動を、「小熊和也」として行っていた。 なお、チェ・スンチョルはこの間、1975年に発覚した鶴見寺尾事件において、逮捕された北朝鮮工作員金鶴萬に対しても、帰化在日朝鮮人商工人獲得の指示をあたえていた。
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