「小住健蔵」
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チェの次のターゲットは、1961年(昭和36年)以降行方不明だった北海道函館市出身の小住健蔵(1933年、樺太生まれ)であった。チェは、1980年(昭和55年)頃に小住の戸籍を東京都足立区に移した後、小住名義の旅券や運転免許証を不正に取得して「小住健蔵」その人として行動した。この際、戸籍の移動を不審に思った小住の姉と妹が電話番号を調べ、小住健蔵に電話をかけたが、チェが同居人として電話に出て「彼はいま麻雀に行っている」などと応対し、数回にわたって誤魔化し続けた。チェは小住健蔵名義のパスポートで東南アジアやヨーロッパ、具体的には香港、マレーシア、タイ王国、西ドイツ、韓国などを計6回訪れた。本物の小住健蔵について、北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(通称「救う会」)や西岡力は、土台人金錫斗が工作員教育を受けており、小熊和也についてはいったんチェより拉致を命令されたこともあることから、北朝鮮に拉致された可能性が高いとみている。外事警察もまた、北朝鮮に拉致された可能性が高いとしている。ほぼ同じ時期に起こったと考えられる原敕晁拉致事件(辛光洙事件)では、原敕晁(北朝鮮が、拉致された日本人田口八重子の結婚相手であったが田口とともに1986年に死亡したと説明している人物)もまた家族と連絡が絶たれており、なりすましの対象として拉致されたと考えられる点でも状況が似ている。また、フリージャーナリストの全富億は、北朝鮮スパイ機関のやり方からみて、北朝鮮に拉致されたか、あるいは殺害された可能性もあるとしている。 このころ、チェは「会社を設立する」と言って内縁の妻に金をねだった。彼女は貯金を切り崩して600万円を「松田忠雄」に融通した。1982年(昭和57年)、「松田」ことチェ・スンチョルは装飾品販売の会社「信英エンタープライズ」を東京都内に設立し、自ら社長となったが、仕事は女性と金錫斗に任せきりで、いつも売上金を回収しては、どこかに持ち去っていた。おそらくは、本国への献金か工作資金にまわされたものと考えられる。
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