「松田忠雄」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 00:26 UTC 版)
チェは、戦前に内地(愛知県小牧基地周辺)に住んでいたことがあり、日本語に堪能で関西弁を流暢に使いこなしていた。そして、正月には和服を着て初詣に出かけるなど、朝鮮人らしさを払拭して日本人以上の日本人に成りきることに徹していた。 チェの再来日は1970年(昭和45年)8月秋田県男鹿半島の海岸からの密入国で、入国後、大阪在住の在日朝鮮人の江口智こと金錫斗(キム・ソクト)を土台人(北朝鮮の工作員が活動の足場や拠点として利用する人間)として獲得した。その後チェ・スンチョルは東京都足立区西新井に居を定め、「松田忠雄」の偽名を名乗って東京都内のゴム製造会社に勤め始めた。「松田忠雄」の勤務態度はいたってまじめで模範的社員であった。チェ・スンチョルは、大阪でスプリング製造会社を営んでいた金錫斗を「商売をやるなら東京がよい」と誘い、家族ともども西新井に転居させた。その一方で、金に対し「私は北朝鮮にいる貴方の両親や兄弟をよく知っている。私の言うことを聞いたほうがいい」と恐喝した。 「松田忠雄」はゴム靴工場に約1年勤務したが、この間、夫と死別し、3人の子どもを抱えてパートタイマーをしていた社内の同僚(当時38歳)に近づいて交際し、数か月後には彼女と同棲生活を始めた。母子家庭に入り込んだ「朴」は、「家族旅行」と称して日本海沿岸部などをたびたび訪れた。その場所は、判明しているだけでも、以下の通りである。 1971年6月:秋田県男鹿半島 1972年8月:京都府丹後半島、宮津、大阪市 1973年1月:静岡県熱海市、伊豆大島 1976年8月:石川県能登半島 1980年8月:九州・日南海岸、四国地方 特に能登半島では、持参したテントを海岸に設営して1週間も過ごし、海岸線の地形をカメラやビデオで念入りに撮影した。同棲した未亡人とは結婚こそしなかったものの、3人の子のよき父親としてふるまい、その一方では、工作員の「浸透」(不法入国)や「復帰」(本国への帰還)に用いられる砂浜を撮影し、家族写真とともに北朝鮮本国に送っていたのである。
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