「松竹ヌーヴェルヴァーグ」の旗手とは? わかりやすく解説

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「松竹ヌーヴェルヴァーグ」の旗手

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 07:48 UTC 版)

大島渚」の記事における「「松竹ヌーヴェルヴァーグ」の旗手」の解説

京都大学卒業後、1954年昭和29年)に松竹入社大船撮影所大庭秀雄野村芳太郎などの元で助監督務めた1959年昭和34年)、長編愛と希望の街』で映画監督としてデビュー同作タイトル当初を売る少年であったが、松竹幹部から「題名暗くて地味」だと指摘され妥協案として落差表した『愛と悲しみの街』という改題提案したが、公開時には本人知らないうちに愛と希望の街』へと変更されていた。翌1960年昭和35年)の『青春残酷物語』や『太陽の墓場』といったヒット作により、篠田正浩吉田喜重とともに松竹ヌーヴェルヴァーグ旗手として知られるようになった。しかし、自身そのように呼ばれることを望まなかったという。 1960年昭和35年10月日米安全保障条約反対する安保闘争描いた日本の夜と霧』を発表。しかし、同作公開から4日後、松竹によって大島無断上映打ち切られた。大島はこれに猛抗議し1961年昭和36年)に同社退社同年大島同時に松竹退社した妻で女優小山明子大島の助監督その後脚本家として活動する田村孟同じく脚本家石堂淑朗俳優小松方正戸浦六宏の6名で映画製作会社創造社」を設立したその後同社には俳優渡辺文雄らが加わった1962年昭和37年)の『天草四郎時貞』の興行失敗契機として、テレビの世界にも活動範囲広げるようになった1963年昭和38年)の元日本軍在日韓国人傷痍軍人会を扱ったドキュメンタリー忘れられ皇軍』は話題となり、翌1964年脚本務めたテレビドラマ青春深き渕より』は芸術祭文部大臣賞受賞したまた、60年代には大島渚南ベトナム軍取材したTVドキュメンタリー放映された。戦争悲惨さ伝え内容だったが、放映後に寄せられ視聴者の声は、よくやったというものが圧倒的に多く批判的なもの皆無だったという。その他にも『日本映画百年』(1995年)など20本以上のテレビドラマドキュメンタリーを手がけた。テレビでの仕事通じて親交深めたディレクター一人実相寺昭雄がおり、後に映画監督として創造社系の脚本家多くコンビ組んだ大阪釜ヶ崎にのりこんで撮影した太陽の墓場』でも高評価得た1960年代後半には『白昼通り魔』(1966年)や『忍者武芸帳』(1967年)、『絞死刑』(1968年)、『新宿泥棒日記』(1969年)など政治的社会的な作品矢継ぎ早に発表し国内外での認知度急速に高まった1971年昭和46年)には創造社時代集大成とも言われる儀式』を発表同作キネマ旬報ベストテン第1位選出された。翌1972年昭和47年)の『夏の妹』の発表後、「創造社」は翌1973年昭和48年7月解散したその後映画製作資金を稼ぐためにテレビ出演など活動行った1975年昭和50年)、新たに大島渚プロダクション」を設立。『愛のコリーダ』の製作に着手した

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