松竹ヌーヴェルヴァーグ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 15:14 UTC 版)
「日本ヌーヴェルヴァーグ」の記事における「松竹ヌーヴェルヴァーグ」の解説
1960年代前半の松竹出身の映画監督達を指して言った言葉。大島渚の『青春残酷物語』の興行的ヒットがきっかけ。奔放さや反権威の姿勢が、フランスで勃興しつつあったヌーヴェルヴァーグと似ていたことから、それらの新しい映画に対して、マスコミによって「松竹ヌーヴェルヴァーグ」と名づけられた。命名したのは、当時「週刊読売」の記者であった長部日出雄である。具体的には大島渚、篠田正浩、吉田喜重の三人の映画監督と彼らと関係があった映画制作のメンバー等を指す。上記三人に高橋治、森川英太郎、石堂淑朗、田村孟を含めて七人で代表する場合もある。 大島渚は『日本の夜と霧』を松竹が自主的に上映中止したことに抗議し、またそれまでの会社の監督に対する処遇への不満もあって、松竹を退社した。数年後、吉田喜重や篠田正浩も独立した。「創造社」や「ATG」はアート志向の監督に、新しい波を呼び起こす映画を創作する場を与えた。松竹ヌーヴェルヴァーグは数年しか続かなかった。その理由としては、この三人を中心とする人物達には作風における共通点が少なく、本家ヌーヴェルヴァーグのような党派性の共通点はなかったことがあげられる。閉塞性を打破し、新しいなにかを見出そうとした彼らの姿勢に対し「ヌーヴェルヴァーグ」と呼ばれたに過ぎない、とする見解もある。
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