松竹・大洋時代とは? わかりやすく解説

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松竹・大洋時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 10:12 UTC 版)

岩本義行」の記事における「松竹・大洋時代」の解説

1950年小西得郎松竹監督就任要請固辞したため、チーム監督不在のままキャンプ突入岩本大量補強したチームをまとめるため、キャンプ地倉敷からオート三輪東京まで駆けつけ明治の大先輩小西説得小西イヤイヤながらも要請受諾した自身も二リーグとなった同年3月11日開幕第2戦(下関市営球場対中日)でセ・リーグ第一本塁打満塁放つと、この年3番小鶴誠5番大岡虎雄クリーンアップ組み水爆打線呼ばれた強力打線構成しシーズン127打点加え史上初のトリプルスリー打率.319 39本塁打 34盗塁)を達成してリーグ優勝大きく貢献したトリプルスリー最年長記録など、この年松竹打撃記録多くプロ野球記録セ・リーグ記録である。 毎日オリオンズとの第1回日本シリーズでも3本塁打打ち、第6試合では4点リードされ無死満塁では毎日から同点本塁打警戒されて敬遠された(投手若林忠志)。岩本自身が「ノーアウト満塁敬遠なんて、自分長い野球生活でも後にも先にもない」と驚く作戦だった。シリーズは、初戦岩本無謀な三盗などで毎日敗れた。このプレー岩本の“ミステリー走塁と言われている。 1951年8月1日の対大阪タイガース戦(長野上田球場)では、自らの記録塗り替える史上初の1試合4本塁打記録二塁打放ち1試合18塁打プロ野球記録達成。この二塁打左翼フェンス上部直撃したといわれている。31本塁打(本塁打王青田昇と1本差)、打点87打率2位.351(首位打者川上哲治.377)、長打率1位、盗塁10この年4月22日国鉄戦から6月6日巨人戦まで27試合連続ヒット記録。この記録1976年張本勲抜かれるまでセ・リーグ記録だった。前年この年に、二年連続外野手シーズン最多補殺8という、セ・リーグ記録残している。 1951年オフ小西得郎大洋ホエールズ監督就任すると、荒川昇治とともに希望して大洋移籍1953年松竹ロビンスとの合併で、松竹小西監督続投難色示し監督就任要請されたが、小西顔を立てて辞退し小西監督続投となったこの年シーズン24死球記録した(現在もセリーグ記録で、日本記録2007年グレッグ・ラロッカ更新した28死球)。岩本頭部死球受けて平然と一塁歩き、これにはぶつけた投手の方が青くなったという伝説がある。張本勲の話ではヒビ入った頭蓋骨レントゲン写真見せてもらった事があるという。また"岩本あんちゃんケンカが強い"と雷鳴鳴り響いていたといわれる。ただ鈴木龍二は「岩本君より大岡君の方が強い」。大和球士は「大岡が一番じゃないかな、プロ野球三十年史上では」と話している。

※この「松竹・大洋時代」の解説は、「岩本義行」の解説の一部です。
「松竹・大洋時代」を含む「岩本義行」の記事については、「岩本義行」の概要を参照ください。

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