松竹入社と歌舞伎への関わり
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「永山武臣」の記事における「松竹入社と歌舞伎への関わり」の解説
大学在学中の1947年(昭和22年)10月に松竹に入社し、東京劇場監事室に配属された。 1951年(昭和26年)1月の東京・歌舞伎座の再開と同時にその監事室に配属され、松竹創業者の一人である大谷竹次郎の下で、同年に上演された「源氏物語」(9代目市川海老蔵(後の11代目市川團十郎)や7代目尾上梅幸、2代目尾上松緑ら)や6代目中村歌右衛門襲名披露興行など第2次世界大戦後初期の歌舞伎の代表的な公演に関わることになった。 1953年(昭和28年)12月に歌舞伎座で上演した「地獄変」(芥川龍之介原作)は、学習院初等科時代からの友人であった三島由紀夫に依頼して歌舞伎化をしたもので、「三島歌舞伎」と呼ばれるものの第1作となった。 1958年(昭和33年)7月に演劇部へ異動してプロデューサーとなり、正式に製作を担当するようになった。 歌舞伎の海外上演に早くから取り組み、1960年(昭和35年)に第1回の米国公演を行ったのを皮切りに、翌年の1961年(昭和36年)にソビエト連邦共和国公演を行うなど 1960年代からを海外へ紹介して国際化を進めた。松竹は永山の存命中に33ケ国・延べ56回の歌舞伎海外公演を行ったが、そのうちの41公演に同行して陣頭指揮を執った。 また、国内でも東京・渋谷のシアターコクーンの「コクーン歌舞伎」のほかにも、野田秀樹の「野田歌舞伎」や蜷川幸雄の「NINAGAWA十二夜」など現代演劇の演出家を起用した新たな「歌舞伎」にも挑戦させた。 こうした新たな取り組みの一方で、6代目中村歌右衛門達と共に古典歌舞伎の充実を図った。 また、歌舞伎俳優の大名跡の襲名を相次いで仕掛け、7代目尾上菊五郎(1973年(昭和48年)) や「高麗屋三代」(1981年(昭和56年))、12代目市川團十郎(1985年(昭和60年))、11代目市川海老蔵、4代目坂田藤十郎、18代目中村勘三郎などの襲名披露興行を指揮した。 さらに、1990年(平成2年)8月に歌舞伎座で納涼歌舞伎を復活させたのを皮切りに、歌舞伎座を年間を通して歌舞伎上演を行う専用劇場化した。
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