おのえ‐きくごろう〔をのへキクゴラウ〕【尾上菊五郎】
尾上菊五郎(五代目) おのえ きくごろう
東京生まれ。歌舞伎俳優。父は江戸の市村座主十二代目市村羽左衛門。嘉永2年(1849)市村座で初舞台、4年(1851)十三代目市村羽左衛門を継ぎ、17年間市村座の座元を務める。明治元年(1868)五代目尾上菊五郎を襲名し、九代目市川団十郎、初代市川左団次とともに「団菊左」と称された。立役から女方までこなし、黙阿弥の手による世話物を多く演じた。家の芸として『戻橋』『土蜘』など「新古演劇十種」を制定。
(注:この情報は、国立国会図書館ホームページ内の「近代日本人の肖像」の内容を転載しております。掲載内容の複製については、国立国会図書館の許諾を得る必要があります。)
尾上菊五郎(六代)
歌舞伎俳優。五代菊五郎の長男。本名は寺島幸三、前名は尾上丑之助、俳名は三朝、屋号は音羽屋。中村吉右衛門と並んで名声を挙げた。芸術院会員。歿後、歌舞伎俳優として初めて文化勲章を受章した。昭和24年(1949)歿、65才。
尾上菊五郎(三代目)
尾上菊五郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/04 00:45 UTC 版)

抱き柏


尾上 菊五郎(おのえ きくごろう)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は音羽屋。定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四ツ輪。役者文様に斧琴菊(よきこときく)がある。
- 初代 尾上菊五郎
- 京・都萬太夫座の芝居茶屋の出方・音羽屋半平の子、1717–83。京では女形、のちに江戸に下って立役となる。
- 初代尾上菊五郎
- 二代目 尾上菊五郎
- 初代の後妻の連子、実父は二代目大谷廣次、1771–87。初代の死後2年目に二代目を襲名したが2年後に急死。
- 初代尾上丑之助 → 二代目尾上菊五郎
- 三代目 尾上菊五郎
- 初代の門弟・初代尾上松緑の養子、実父は小伝馬町の建具屋・辰蔵、1784–1849。作家や裏方と協力して創意工夫を重ね、江戸歌舞伎の型を整理。役柄が広く「兼ネル菊五郎」と謳われた名優。
- 尾上新三郎 → 初代尾上榮三郎 → 二代目尾上松助 → 三代目尾上梅幸 → 三代目尾上菊五郎 → 菊屋萬平(舞台引退後) → 初代大川橋蔵(舞台復帰後)
- 四代目 尾上菊五郎
- 三代目の長女の婿養子、1808–60。大坂出身の女形。
- 中村辰蔵 → 中村歌蝶 → 尾上菊枝 → 三代目尾上榮三郎 → 四代目尾上梅幸 → 四代目尾上菊五郎
- 五代目 尾上菊五郎
- 三代目の次女の子、1844–1903。父は十二代目市村羽左衛門。九代目市川團十郎・初代市川左團次とともに「團菊左時代」を築いた明治の名優。
- 二代目市村九郎右衛門(=初代尾上九朗右衛門)→ 十三代目市村羽左衛門 → 四代目市村家橘 → 五代目尾上菊五郎
- 六代目 尾上菊五郎
- 五代目の子、1885–1949。初代中村吉右衛門とともに「菊吉時代」を築いた大正・昭和期の名優。歌舞伎界で単に「六代目」というとこの六代目菊五郎のことをさす。
- 二代目尾上丑之助 → 六代目尾上菊五郎
- 七代目 尾上菊五郎
- 六代目の養子・七代目尾上梅幸の長男、1942– 。当代。世話物を得意とし、「尾上菊五郎劇団」を率いて江戸歌舞伎を今に伝える。
- 五代目尾上丑之助 → 四代目尾上菊之助 → 七代目尾上菊五郎
- 八代目 尾上菊五郎
- 七代目の長男である五代目尾上菊之助が、2025年に襲名[1][2]。襲名後も、七代目は変わらず「菊五郎」を名乗る[2]。
- 六代目尾上丑之助 → 五代目尾上菊之助 → 八代目尾上菊五郎
脚注
- ^ 菊五郎&菊之助の「襲名を祝う会」に1500人 高円宮妃久子さま YAHOO!ニュース
- ^ a b “尾上菊之助が来年5月「8代目菊五郎」襲名 当代菊五郎も名前変わらず、歌舞伎史上初の大名跡「菊五郎」2人に”. スポーツ報知 (2024年5月27日). 2024年5月28日閲覧。
外部リンク
尾上菊五郎と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
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