松竹大船時代
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「清水宏 (映画監督)」の記事における「松竹大船時代」の解説
日本映画界が本格的にトーキーの時代を迎えた1936年、上原謙を主役に『有りがたうさん』を発表。伊豆の街道をバス1台で走りながら、その中でとられた全編ロケーションでとる手法は、「実写的精神」と呼ばれ、絶賛を浴びる。それ以来、自然の情景の中で演技を発展させる手法を徹底的に追求することとなる。 清水は作為ではない、あるがままなものを好んだため、子どもや新人俳優、大部屋俳優、素人を好んで使った。その流れで、坪田譲治の児童文学を映像化した『風の中の子供』(1937年)、『子供の四季』(1939年)の中で彼の演出技法は、効果的だった。 この2作品の児童映画の成功から、以降、清水は、子供をうまく使う監督として有名になる。また、大人の役者の芝居くささを嫌い、伊豆を中心に自然な情景を好んだ。 当時、清水作品の子ども達の生き生きとした姿に驚いた映画評論家が、その演出の秘密をきくと、清水は、餓鬼大将のように遊んでやるのさ、と答えたという。特に、爆弾小僧(横山準)、突貫小僧(青木富夫)らやんちゃな子役を可愛がった。 1939年、36歳で松竹大船の筆頭監督となる。1937年に始まった日中戦争の世相のなかで、時代の要請もあって、朝鮮で『ともだち』(1940年)、台湾で『サヨンの鐘』(1943年)を撮るが、そこでも自然風景に対する独自の視線と自然のままの子どものような人物を描くという姿勢は一貫していた。 1930年代後半、スポーツ学生の軍事教練の行進で始まる『花形選手』(1937年)、ひなびた温泉宿の淡く美しい交流をエッセイのように撮った『簪』(1941年)などで、素朴な快活さやゆったりとしたユーモア、美しい情緒を描き出すが、当時の社会に横たわる世相もさりげなく写し撮った。 1940年、児童映画の延長として、当時、社会的にもシリアスな題材だった「特殊非行児童」を取り上げた『みかへりの塔』(1941年)を大阪の修徳学院で長期ロケをして撮影し、1940年前後は、名実ともに日本映画の巨匠として活躍した。清水の言動や作品から推測すると「特殊」はいないという信念を持っていたと思われる。 しかし、1943年、台湾で『サヨンの鐘』(1943年)を製作中に松竹大船撮影所を追放された。清水の横暴な性格などがその原因と言われている。一時は撮影所を離れて、京都や奈良の仏像に親しむ生活を送った。
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