松竹大船時代とは? わかりやすく解説

松竹大船時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 08:34 UTC 版)

清水宏 (映画監督)」の記事における「松竹大船時代」の解説

日本映画界が本格的にトーキーの時代迎えた1936年上原謙主役に『有りがたうさん』を発表伊豆街道バス1台で走りながら、その中でとられた全編ロケーションでとる手法は、「実写精神」と呼ばれ絶賛浴びる。それ以来、自然の情景の中で演技発展させる手法徹底的に追求することとなる。 清水作為ではない、あるがままなものを好んだため、子どもや新人俳優大部屋俳優素人好んで使った。その流れで、坪田譲治児童文学映像化した『風の中の子供』(1937年)、『子供の四季』(1939年)の中で彼の演出技法は、効果的だった。 この2作品児童映画成功から、以降清水は、子供をうまく使う監督として有名になるまた、大人役者芝居くささを嫌い、伊豆中心に自然な情景好んだ当時清水作品の子ども達の生き生きとした姿に驚いた映画評論家が、その演出秘密をきくと、清水は、餓鬼大将のように遊んでやるのさ、と答えたという。特に、爆弾小僧横山準)、突貫小僧青木富夫)らやんちゃな子役可愛がった1939年36歳松竹大船筆頭監督となる。1937年始まった日中戦争世相のなかで、時代要請もあって、朝鮮で『ともだち』(1940年)、台湾で『サヨンの鐘』(1943年)を撮るが、そこでも自然風景対する独自の視線と自然のままの子どものような人物を描くという姿勢一貫していた。 1930年代後半スポーツ学生の軍事教練行進で始まる『花形選手』(1937年)、ひなびた温泉宿淡く美し交流エッセイのように撮った『簪』(1941年)などで、素朴な快活さやゆったりとしたユーモア美し情緒描き出すが、当時の社会横たわる世相さりげなく写し撮った1940年児童映画延長として、当時社会的にシリアスな題材だった「特殊非行児童」を取り上げたみかへりの塔』(1941年)を大阪修徳学院長期ロケをして撮影し1940年前後は、名実ともに日本映画巨匠として活躍した清水言動作品から推測すると「特殊」はいないという信念持っていたと思われる。 しかし、1943年台湾で『サヨンの鐘』(1943年)を製作中松竹大船撮影所追放された。清水横暴な性格などがその原因と言われている。一時撮影所離れて京都奈良仏像親しむ生活を送った

※この「松竹大船時代」の解説は、「清水宏 (映画監督)」の解説の一部です。
「松竹大船時代」を含む「清水宏 (映画監督)」の記事については、「清水宏 (映画監督)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「松竹大船時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「松竹大船時代」の関連用語

松竹大船時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



松竹大船時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの清水宏 (映画監督) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS