松竹入社
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二つ目になった後、小金治のファンでもある松竹大船撮影所の川島雄三監督が小金治の出演していた東京・神田の寄席『立花』を訪れ、そこで直々に川島に誘われて抜擢される。そのとき川島雄三は師匠の小文治に「良い噺家を一人ダメにします。お許しください」と手をついたという。一本目の映画『こんな私じゃなかったに』に出演。拘束時間1日、ギャラ5千円だった。映画は好評で、川島により起用され続け、単発契約で何本か出演した。 それらも好評で、川島の所属する松竹は小金治と専属契約を結びたいと考え、小金治に対して映画出演一本あたりのギャラを提示した。そのとき松竹は片手の指5本を開いて示した。もともと映画一本のギャラが5千円という約束だったので、小金治は当初これを「5千円」と解釈し自分の一月の稼ぎより多いと考えていたら、実は「5万円」という意味だったので驚喜した。ちなみにこのときの条件は「年間6本の出演義務」であった(よって年収30万円)。念のため、師匠の小文治に「契約したほうがいいか断るべきか」を聞きに行くと、即座に「アホ! 落語やってたら、そんな金、一生かかってもようもらえんで…」と返されたという。結果、松竹との専属契約は無事締結された。 今度はいずれも軽い役でなく、長い日数拘束される。スケジュール上なかなか寄席に出られないことから、日本芸術協会から事実上脱会状態となった。以降、フリーの落語家となり、落語家としてはどこの協会にも属していない。しかし師弟関係を大事にし、小金治は終生にわたり小文治を師匠と仰いだ。小金治が名を返そうと小文治のもとを訪問すると「アホ! 師匠に『名を返す』なんてお前いつから偉くなったんじゃ? 師匠が名を取り上げるのでもあるまいに…。小金治、これからもしっかりやりや」と、師は小金治に名を返上しなくていいと告げた。そのため、落語家としての名も返上していない。 松竹時代の川島雄三監督は長く小金治を起用し続けた。しかし、1954年に川島が日活に単身移籍し、コンビを解消。だが、その川島が今度は東京映画(東宝系)に移ると、小金治も1959年、東宝に移籍し、再びコンビを組み活躍。 1961年、今度は小金治が日活に単身移籍し、コンビを解消。その日活ではスターとして迎えられ、1962年から1963年にかけて4本の主演作を残している。他は脇役が多く、その日活には1965年まで在籍。そこの大部屋俳優・桂小かんは(俳優としての)弟子である。
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