落語家として
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老人福祉センターへの落語ボランティアに行き、最終的には介護ヘルパーの資格を取得。病からの復帰を目指し活動するこん平を、亡くなる2020年までサポートしていた。 持ちネタは「犬の目」・「がまの油」・「袈裟御前」・「代書屋」・「夜店風景」。
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落語家として
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明治大学在学中は学園紛争の時代で卓球の練習も授業もなく、気軽に足を運んだ新宿末廣亭で小学生の頃にラジオで聴いてやっていた落語と再会。在学中に6代目三遊亭圓生の弟子入りを志願し、圓生の自宅に通い落語を習っていたが、ある日圓生から「前座はぬう生(後の三遊亭圓丈)と旭生(後の三遊亭圓龍)がいるから3人も面倒見られない」と、圓丈(明大の先輩でもある)を通じて断られる。不憫に思った圓丈は彼宛に「落語協会はうちの師匠が会長だから、落語芸術協会(当時は日本芸術協会)に行って、古典落語をやりたかったら古典落語の得意な若手真打に弟子入りするのがいいんじゃないか?」とハガキを郵送する。このアドバイスを受けて、3代目三遊亭遊三に弟子入りする(前座名:三遊亭遊吉)。 前座時代には、同い年である林家九蔵(現:三遊亭好楽)の実家に居候していた時期がある。小遊三はこの事について「(8人兄弟の好楽は)兄弟が多いから、ひとりぐらい増えても問題なかった」と回想している。 鈴本演芸場は落語芸術協会に小遊三の真打昇進を何度か打診したものの、同協会が認めなかったため、1982年3月中席夜の部で二ツ目の小遊三をトリに起用した。2年後、鈴本演芸場は落語芸術協会と絶縁することになる。翌1983年、真打昇進。 1980年代中盤以降は『笑点』回答者としてのイメージが強いが、漫才ブームの頃に売り出した数少ない落語家の一人であり、『笑点』出演以前も『らくごin六本木』や『オレたちひょうきん族』などのバラエティ番組で存在感を示していた。『笑点』はその実績が買われて起用されたものである。若い頃は物真似芸をよく披露しており、『笑点』の演芸コーナーでは、野球選手のフォームの真似をする「野球形態模写」を桂米助(ヨネスケ)と共に披露したこともあった。高田文夫は、一緒に韓国プロ野球を観戦に行った際、小遊三が即興でやった韓国人選手の形態模写が現地で大ウケだったのを見て「小遊三の芸は本物だ」と思ったという。 落語家としての持ちネタは多く、同じ演目を連続で何度も繰り返すことは少ない。落語には独自のアレンジを加えることもあり、時代背景を考慮する必要のない(変えたとしても差し支えない)古典落語には時事ネタやカタカナを比較的多く挿入し、時代背景を考慮する落語については時代空間を壊さない程度にオチや使う歌などを変更している。人情噺を語ることはない。 2005年12月、山梨県より「富士の国やまなし観光大使」を委嘱された。 2016年4月、心房細動不整脈によりカテーテルの手術を受ける。
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落語家として
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1981年4月∶三遊亭圓丈に入門。 1982年2月∶前座となる。前座名は三遊亭丈々寺。 1986年9月∶柳家福治、橘家鷹蔵と共に二ツ目に昇進、三遊亭乱丈と改名した。 1996年3月∶春風亭勢朝、いなせ家半七、三遊亭窓里、林家とんでん平、柳家さん福、橘家蔵之助、柳家福治、橘家仲蔵とともに真打昇進。三遊亭らん丈となる。 高座では三省堂の『新明解国語辞典』や蔭山英男の漢字ドリルを読み上げる新作を口演することが多い。カトリック教会に所属するクリスチャン落語家でもある。
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落語家として
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1955年(昭和30年)、東京都立文京高等学校を中退し、4代目三遊亭圓遊に入門。前座名「金遊」。高校在学中は演劇部に在籍し、もっぱら人を笑わせ、落語家の素質を見せていたという。1958年(昭和33年)、二ツ目昇進。 1964年(昭和39年)7月13日 より、 JRN系列で月曜日から土曜日の13時から18時に放送していた昼ワイドラジオ番組『オーナー』の「落語天気図」コーナーにレギュラー出演し「お天気や金ちゃん」として人気を得る(〜1966年(昭和41年)10月1日まで)。 声優・俳優の井上真樹夫とは同じ高校の先輩・後輩という関係から親交があった。
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落語家として
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2000年代以降、師匠の鶴瓶が「六人の会」などの活動から落語に目覚め、一門で落語会なども開くようになったため、笑瓶自身もできない落語を勉強せざるを得なくなった。現在は一門の落語会や弟子の笑福亭笑助との親子会で口演するほか、天満天神繁昌亭の定席にも不定期で出演している。 演目は自作の『横山大観』『ある日の六代目』『一日早い死神』『レトロミュージアム』など新作落語(私落語)のみで古典落語は口演していないが、『上方落語家名鑑ぷらす上方噺』制作時の取材に「(大師匠以来由緒のある)笑福亭という屋号の重さ、物語で笑いを届ける落語という話芸の素晴らしさを実感している」と答えている。 出囃子は、自身のものまねレパートリーにちなんで「魔法使いサリー」。
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落語家として
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落語家としての全盛期の実力に対する評価は概して高いものの、直情径行な性格により数々の過激な争いを起こし続けており、敵を作ることも厭わない「暴れん坊」ぶりもあって、毀誉褒貶の激しい人物でもある。談志の落語で特筆すべき点は、師匠から受け継いだ型を大事に伝承する古典落語において、「己を語る」独自の型を発明したことである。現代に生きる人々の価値観や美意識を内容に投入し、噺の途中で「このストーリーのここがおかしい」「こういう人情は違う」と、談志の意見や解説、哲学が入る。故に「客は『噺』ではなく、『談志』を聴きにくる」と言われたほどである。その芸を邪道とする意見も少なくなかったが、熱心なファンを獲得し続けた。山藤章二は「落語の伝統の部分だけで生きていれば間違いなく平成の名人として落語史に名を連ねただろう」と述べている。 楽屋ネタや同業者をネタにする噺家は少なくないが、談志もまた、生前は敵味方・先輩後輩関係無く、同業者にネタにされた。落語『地獄めぐり』では、地獄に来た落語家を並べ立てるくだりにおいて、「立川談志……あれ、あいつまだ生きてんじゃなかったか……ああ小さく書いてある、えーと『近日来演』」(まもなく死んで地獄に来る、というオチ。オリジナルは3代目桂米朝の『地獄八景亡者戯』で、本来は演者の名前が入る)というネタが出てくる。 落語そのものについては、「落語とは、人間の業の肯定である」との見解を常々表明していたが、晩年は「イリュージョン」という独自の域に達したと自認していた。志らくおよび談笑は、イリュージョン落語について以下の特徴を挙げている。 (落語は、マクラも含めて)己れ(=談志)の感覚でしゃべるもの 登場人物が談志と被っている 落語ではなく談志という人間が面白い 晩年の談志は、太田光との対談で「テツandトモとラーメンズが最近の芸人では面白い」と発言し、それに対して太田は「テツandトモは正統派の面白さだが、ラーメンズは師匠(談志)の言うイリュージョンの面白さだと思う」と答えていた。
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落語家として
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「三遊亭圓楽 (5代目)」の記事における「落語家として」の解説
上野鈴本演芸場で落語を見た時に「戦争ですべてを奪われ暗い顔をした人々にこうやって笑いを起こさせることができる落語はすごい」と落語家になることを決意する。 1955年2月、6代目 三遊亭圓生に入門し、寛海は「三遊亭全生」(ぜんしょう)と名乗る。圓生には「一人前になるまで50年は食えませんよ」と言われたが、寛海は「30歳までに真打になれなかったら辞めます」と言って入門した。なお圓生に入門した理由は「当時は志ん生師匠や文楽師匠の方が師匠より格上だったが、高齢(寛海が噺家を志した時点で両名とも既に還暦を超えていた)で自分の面倒を最後まで見てくれるか分からなかったから」と述べている。 1958年3月に二つ目に昇進。1962年10月に真打に昇進して5代目「三遊亭圓楽」を襲名する。落語家を諦める期限としていた30歳を迎える約3か月前であった。 1978年の落語協会分裂騒動では「師匠をおいて残れない」と圓生一門とともに落語協会を脱退。当時、圓楽は圓生に「あたしが引退した後、お前が三遊派の総領として弟子を守っていくんでげすよ」と念を押されていた。圓生が引退している身であれば脱会はしなかったが(もともと、圓楽は騒動の原因となった真打昇進に関しては圓生と正反対の考え方を持っていた)、当時、圓生は78歳と高齢ながら現役を退いておらず、師匠に逆らい自分が弟弟子と行動を共にすることなぞできないと悟り、師匠とともに「落語三遊協会」を立ち上げた。 1979年に圓生が亡くなると、6代目三遊亭圓窓・三遊亭圓彌・三遊亭圓丈ら圓楽以外の圓生の直弟子たちは落語協会に復帰。圓楽は新たに「大日本落語すみれ会」を設立。すみれ会はその後、「落語円楽党」「落語ベアーズ」と改称し現在の「圓楽一門会」となる。 1985年3月、「噺家の純粋培養」を企て寄席に出られない圓楽一門の新たな活動の場として東京都江東区東陽町に自費で寄席「若竹」を設置。しかしオフィス街かつターミナル駅から離れた立地条件の悪さに加え、弟子たちが圓楽の意に反して余興(上方でいう「営業」)等に精を出して「若竹」の出番を休んでいたりしたため、これに憤った圓楽は「若竹」の閉鎖を決意し、1989年11月25日に閉鎖した。以降、圓楽一門は圓楽傘下の芸能社である星企画の取ってくる余興等にのみ活動の場を求めなければならなくなった。「若竹」閉鎖後は借金返済のために日本中で講演したため、高座から離れる機会が多くなり、圓楽はその時期のことについて「借金返済のため、噺家として大事な50代に全国を講演で回った。悔やんでも悔やみきれない」と語っている。
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落語家として
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1960年(昭和35年)、落語界入り。清水崑の紹介で三代目桂三木助に入門。三木助は弟子には「木久」の字をつけていたので、木久男の名をもらう。 1961年(昭和36年)1月、師匠三木助死去。同年3月、八代目林家正蔵一門へ移籍、「木久蔵」と改名。 1965年(昭和40年)9月、二ツ目昇進。 1973年(昭和48年)9月、林家木久蔵、三遊亭好生、桂文平、四代目三遊亭歌笑、三遊亭生之助、橘家三蔵、柳家小きん、三遊亭歌雀、柳家さん弥、金原亭桂太の十人で真打昇進。 1982年(昭和57年)1月29日、師匠林家彦六死去。 1992年(平成4年)、社団法人落語協会理事に就任。 2007年(平成19年)9月21日、「木久扇」と改名。 2020年(令和2年)5月13・14日、東京・明治座で「林家木久扇芸能生活60周年記念公演」を開催する予定が、新型コロナウイルス感染防止のため中止。延期されて2021年3月16・17日に開催された。
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落語家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 19:26 UTC 版)
広告代理店での会社員生活を経て、7代目(自称5代目)立川談志に弟子入りを希望し、談志と面談した。志の輔の提出した履歴書を見て、談志は「あぁ〜、劇団やってみても駄目、サラリーマンやっても駄目、落語家にでもなってみようって、そういう了見なんだ。ま、そこら辺でウロウロしてろ」と話し、入門を許可したとのこと。 談志に入門してからの苦労を、高座や出演番組などで度々語っている。その際は、師匠・談志の偏屈な性格に苦しんだ過去をオーバーに表現する。 その一方、談志は志の輔を「立川流の最高傑作」と高く評価している。これは、志の輔が入門3か月後に談志一門が落語協会を脱退していることから、「寄席を経験しない弟子第1号」として志の輔を「立川流の実験台」と位置付け、結果成功を収めたことによる評価である。 「落語で食べる(落語家で生計を立てる)」ということは、落語家を志した時から考えていなかった。「『落語家になる』『落語家でいる』ということのほうが先で、『食う』『食わない』は別物だった」とインタビューで語っている。 入門から数か月、志の輔は前座見習いとして師匠・談志に付き人として同行していた。路線バスでの移動中、突然、談志から「志の輔、俺やめるわ」と言われ、当初は「何をやめるんだろう? 今日の予定は何だったろう?」と思ったが、談志の言った「やめる」とは「寄席を辞める(=落語協会脱退)」という意味だった(志の輔は、テレビ番組でのさまざまな「ドキュメント番組」、「インタビュー番組」などで、落語家入門当時の話題では、「この件」のことでは、『バスでの移動中に「俺出るわ」』と言われたとも語っていることもある)。 談志から初めて教わった落語の噺は『道灌』。談志一門では『道灌』は最初に教わる噺の一つであり、噺の中での登場人物の設定、長屋などの部屋の構造、登場人物の部屋での位置関係など、落語の表現方法における基本を教わる(志の輔が「談志から直接稽古を付けて貰った噺は『四席』だった」と、ラジオやテレビでのインタビューなどで語っている)。 朝のテレビ番組の情報リポーターと、午後からのラジオ番組のレギュラーがあったころ、都内に自宅とは別に部屋を借りて、仮眠をとったり落語の稽古をしていた。
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落語家として
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高校卒業後、6代目笑福亭松鶴に入門。松鶴を選んだ理由は、(染丸以外の)松鶴・3代目桂米朝・3代目桂春団治・3代目桂小文枝の中で「名前の字数が一番多い」ことに加え、母から「顔の怖い人ほど心根は優しい」と言われたことにあった。2013年現在では3代目笑福亭仁鶴に次ぐ2番弟子である。 入門の際、松鶴の許を直接訪問せずに、「弟子にするなら○、弟子にしないなら×で返事をください」との内容を記した往復はがきを郵送したエピソードが知られる。結局返信されなかったため、直接道頓堀角座に出ていた松鶴の元に訪れ弟子入りを直訴した。松鶴からははがきを送ったことに加えて宛名を「松福亭松鶴」と誤記した点を「なんちゅう失礼なやつ」「ナショナルの会社へ行って、東芝と言うてるようなもんや」と激怒される。偶然そのとき持ち込まれた独演会のチラシに同じ誤記があったことで松鶴は「プロが間違うなら、素人が間違っても仕方がない」と大声を出すよう命じて鶴光が叫ぶと、近くでそれを聞いた砂川捨丸が「大きな声を出せるということは芸人に向いてる」と弟子に取ることを勧め、松鶴は誤字の件を「水に流そう」と入門を認めた。 正式な入門は1967年4月、入門当日からいきなり稽古が始まった。高座名は松鶴から「鶴之(つるゆき)」と「鶴光」のどちらかを選ぶように指示され、「鶴光」を選んだという。 初舞台は1968年2月の新花月。入門時点で自動車運転免許を持っていたため、やはり免許を持っていた6代目笑福亭松喬が入門するまで松鶴の運転手をする。松鶴からはしばしば無茶な運転を強要され、急停止などで「意趣返し」をしていたという。また、松鶴からは7回破門されたと著書に記している。 1970年代前半、ラジオのパーソナリティとして人気を集め、1974年にニッポン放送の『オールナイトニッポン』に起用されて(笑福亭鶴光のオールナイトニッポン)、その知名度を高める(詳細後述)。『オールナイトニッポン』からは書籍(『かやくごはん』)やレコード(うぐいすだにミュージックホール)も出し、いずれもヒットした。だが、松鶴からタレント活動に苦言を呈されたこともあり、落語にも本腰を入れて取り組むようになる。 上方落語協会、関西演芸協会のほか、5代目春風亭柳昇の口添えで1990年より落語芸術協会(芸協)にも上方真打として参加、通常は東京の寄席に出演している。これは鶴光が1987年から2003年の間、東京のニッポン放送で平日帯のレギュラー番組(後述)を持っていたというスケジュール上の事情が背景にある。最初に東京の寄席(新宿末廣亭)に出たのは1989年9月で、当初より定席に組まれたがそれに対する風当たりを感じて代演という体裁に変えてもらい、約半年後に芸協側から「準会員としてちゃんと出てもらおう」という形になった。また、江戸落語では三味線・長唄・笛・日本舞踊の素養が必須と聞いてすべて習得している(上方落語では三味線の囃子方は職分として落語家とは別にいる)。 「6代目の(松鶴)師匠にはお世話になったから」(東京の落語家の来阪時にもてなした)と、東京の落語家に便宜を図ってもらう機会が何度もあり、鶴光は師匠への感謝の念を著書に記している。 上方落語協会に籍を置いて東京の寄席でトリを取る資格を持つのは鶴光のみ(弟子の里光、和光、羽光が芸協の真打のため「唯一の上方落語家」ではないが、里光、和光、羽光は上方落語協会の正会員ではない)。NHK教育テレビの演芸番組『日本の話芸』にもしばしば出演する。
※この「落語家として」の解説は、「笑福亭鶴光」の解説の一部です。
「落語家として」を含む「笑福亭鶴光」の記事については、「笑福亭鶴光」の概要を参照ください。
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