落語家に転向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 10:09 UTC 版)
「三遊亭圓生 (6代目)」の記事における「落語家に転向」の解説
1909年(明治42年)ころ、横浜新富亭で高座に穴が開き、聞き覚えていた落語「箱根山」を口演して場をつなぐ。旅の仕事で訪れた伊香保温泉の石段で転倒し胸を強打、医師から義太夫を語ることを止められたため、父の懇意にしていた大坂相撲の横綱若島権四郎の書き添えで継父の師匠である4代目橘家圓蔵門下に入り橘家圓童の芸名で子供義太夫から落語家に転向する。以降、師匠と継父の引きで落語家としての実際の位置より優遇されて過ごす。幼少期は記憶力がよく大人の落語家より早く噺を覚え、師匠や継父くらいの芸はすぐできる、などと思っていたが少年期に自身の芸のまずさに気付いて愕然となる。生来、大の芸事好きであり優遇されている自覚もあって必死で芸に精進する。このころから落語の演目を多数稽古しておりのちに自身の財産になった。橘家小圓蔵の芸名を経て1920年(大正9年)に5代目橘家圓好で真打昇進し1922年(大正11年)4代目三遊亭圓窓、1925年(大正14年)6代目橘家圓蔵と次々と襲名するが一向に芽が出ず売れなかった。1917年(大正6年)から1934年(昭和9年)までの間、師匠や継父と共にめまぐるしく所属団体を変わっている。
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