落語家になるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 20:04 UTC 版)
「桂春団治 (2代目)」の記事における「落語家になるまで」の解説
一説には@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}筆職人の家に生まれた[要出典]とされるが、夫人の河本寿栄が著書で「2代目自身の思い出話」と断りを入れて記したところによると、彼の実父は赤壁周庵の血を引くという大阪・難波の病院院長のひとり息子で、実家の反対を押し切って、自宅に出入りしていた鳶職の棟梁の娘と結婚したが、2代目が生まれる直前に輜重輸卒に志願して従軍した日清戦争で戦病死したという。母親はのちに実家の奉公人と再婚したが、その義父は放蕩の果てに失踪。母親も「14 - 15歳」の時に死去して家業は廃れたという。 浅次郎は義父がもうけた3人の弟を抱え、足袋屋(上述の寿栄による回想録では酒樽・醤油樽の「呑み口」=蛇口造りの職人)に奉公に出たものの、小さいころからの芸好きが高じ、16歳の1910年に素人落語をやったりした。19歳の時に大阪俄および喜劇の佐賀家圓助の一座に入門して「佐賀家圓蝶」を名乗り、俄や軽口を演じた。その後旅芝居に加わった。1917年頃には、歌舞伎の一座に加わってウラジオストクに公演に行ったという。俄師だった頃に、若手時代の浪曲師・2代目広沢虎造と懇意になった。 この間、奉公人だった頃に最初の妻(春枝)と結婚した。
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