若手時代(1984年 - 1989年)
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1984年4月、蝶野は武藤敬司と同日に新日本プロレスへ入門し、同年10月に埼玉県で行われた興行でプロデビューした(初戦の相手は、同じくこの試合でデビュー戦を迎えた武藤。)。1987年の第3回ヤングライオン杯で橋本真也を破り優勝。優勝条件の海外武者修行に、同年春に出発。オーストリアのグラーツトーナメントを初参戦に、ウィーントーナメント、ドイツ転戦ではハノーバートーナメント、西ベルリントーナメント、ブレーメントーナメントに参戦。グラーツ、ブレーメンは、オットー・ワンツがプロモートする大会。キャッチ・レスリング・アソシエーション(CWA)に参戦した。ドイツ(当時西ドイツ)ブレーメンで、現在の夫人であるマルティナ・カールスと出会った。 1987年12月、ヨーロッパ武者修行を終え、北米に転戦。アメリカ合衆国カンザスシティに転戦、1988年春にカナダのニューブランズウィック州モンクトンに転戦、1988年秋アメリカ合衆国アラバマのNWAテリトリーと北米を転戦。武者修行中に、2度の短期凱旋もしている。1989年二度目の欧州遠征でオーストリアグラーツトーナメント、ウィーントーナメント、ジンバブエにも遠征した。1989年秋、新日本プロレスから正式に帰国命令を受け、帰国前にアメリカ合衆国バージニア州ノーフォークのルー・テーズ道場で最終調整の短期合宿をし、日本に帰国。ステップオーバー・トーホールド・ウィズ・フェイスロック(STF)は、この時ルー・テーズに伝授された。 1988年7月が1回目の短期凱旋で、新日本プロレス有明コロシアム大会に参戦。帰国直前、蝶野はプエルトリコで武藤、橋本とともに「闘魂三銃士」を結成し凱旋。なお、闘魂継承を最も意識したのは橋本で、蝶野、武藤の2人は乗り気でなかった。1989年4月、プロレス会初の新日本プロレス第1回東京ドーム大会参戦が、蝶野の2度目の凱旋帰国となった。IWGP王座決定トーナメントに出場し、ビッグバン・ベイダーに準々決勝で破れた。この後は、ドイツブレーメンを拠点に、オーストラリア遠征、アフリカのジンバブエ遠征に参戦。正式な帰国は1989年秋であった。
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