1984年 - 1989年
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1984年、エチオピア飢餓救済を目指すバンド・エイドのチャリティーシングル「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」(Do They Know It's Christmas)にボノとアダム・クレイトンが参加。その後、ボノはアフリカ諸国の経済的自立を支援する様々な国際的プロジェクトに関与している。 1984年10月に4枚目のアルバム『焰』(The Unforgettable Fire)を発表。原題の『Unforgettable Fire』とは広島・長崎への原爆投下を生き抜いた被爆者達が描いた絵画のタイトルで、絵画を見たメンバーが感銘を受けて名づけられたものである。元ロキシー・ミュージックのブライアン・イーノと弟子のダニエル・ラノワをプロデューサーに迎えてサウンドも深化し、このコンビはその後も重要な共同作業者となる。シングル「プライド」(Pride (In The Name Of Love))はマーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師)へのトリビュート・ソングであり、全英シングルチャート3位のヒットとなった。 1985年にはウェンブリー・スタジアムで行われたチャリティーイベント『ライヴエイド』に出演したが、ボノが観客席に降りてしまい、3曲歌う予定が2曲で時間切れになってしまった。大舞台でアクシデントにメンバーは意気消沈したが、クイーンと並ぶ熱いパフォーマンスと称賛され、世界中にテレビ中継されたことで大ブレイクするきっかけになった。 1987年3月に5枚目のアルバム『ヨシュア・トゥリー』(The Joshua Tree)を発表。全英・全米チャート1位(全英アルバムチャート・Billboard 200)を獲得し、イギリス音楽史上最速で売れたアルバムとなり、世界各国でNo.1ヒットを記録した。シングルカットされた「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」(With Or Without You)、「終わりなき旅」(I Still Haven't Found What I'm Looking For)はBillboard Hot 100で1位となった。ライブツアーの規模も、アリーナクラスからスタジアムクラスに拡大した。また、ロビー・ロバートソンのソロ・アルバム『ロビー・ロバートソン』にメンバー全員が参加した。 1988年にはアメリカツアーのドキュメンタリー映画『魂の叫び』を公開し、同名のアルバムも発表。ボブ・ディランやB.B.キング、ヴァン・ダイク・パークスらが参加した。先行シングルの「ディザイアー」(Desire)は初の全英シングルチャート1位を獲得した。1989年には2度目の日本公演が開催され、スペシャルゲストにB.B.キングを迎えて行われた。 この時期の音楽スタイルはアメリカのルーツ・ミュージックに傾倒し、ロックの源流であるブルースやゴスペル、ソウルなどブラック・ミュージックの要素が積極的に取り入れられた。
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1984年~1989年
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「デフ・レパード」の記事における「1984年~1989年」の解説
1984年2月、バンドは本拠地をアイルランドのダブリンへ移した。バンドは新しいアルバムの制作に取りかかるが、同年12月31日にドラマーのリック・アレンがシェフィールド郊外で交通事故を起こし、左腕を全て切断することになった。他のメンバーはアレン以外のドラマーは考えられないとメンバーチェンジを考えることなく、一時期はバンド自体を解散することも考えたが、事故報道を経て、そのような経緯を知ったシモンズ社がアレンの両足・右腕だけでも演奏が可能なカスタマイズのエレクトリック・ドラムを製作し、他のメンバーが、アレンがそれに対応しての復帰を待つかたちで、1986年にドニントンで開催されたモンスターズ・オブ・ロックでバンドは久々にライブを行った。 1987年8月3日には、4作目となる『ヒステリア』 (Hysteria) を発表。先行シングルの「ウィメン」こそ奮わなかったものの、続くシングル「アニマル」は全英シングルチャートで6位、全米シングルチャートで19位を記録し、母国イギリスでもスターの仲間入りを果たす。アルバム自体もその週には全英1位となった。翌年1988年3月には3枚目のシングル「ヒステリア」が全米シングルチャートの10位にランクインし、彼らにとって初めての全米TOP10ヒットとなると共に、続く「シュガー・オン・ミー」は全米シングルチャートで2位を記録。アメリカでの売り上げは前作『炎のターゲット』と比べ、スローペースであったが、ほぼ1年後の1988年7月に、全米アルバムチャートでも1位を獲得する。10月には「ラヴ・バイツ」が全米シングルチャートの1位に輝くと共に、翌年1989年1月には「アーマゲドン」も全米シングルチャートの3位を記録するヒットとなり、更には「ロケット」も全米シングルチャートの12位を記録したことで、同作は2018年までに全世界で2800万枚を売り上げる、空前の大ヒット作となる。またハードロックバンドのアルバムとしては、7枚のシングルが全米シングルチャートに全てチャートインしたアルバムは、2018年時点では、このアルバム以外に存在していない。 センター・ステージを採用したツアーは、15ヶ月間にわたって行われた。
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