1984年 - 1991年
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「ボン・ジョヴィ」の記事における「1984年 - 1991年」の解説
1984年、ファーストアルバム『Bon Jovi』(邦題:夜明けのランナウェイ)をリリース。 この年、バンドはスコーピオンズのサポートとして北米ツアーに帯同、キッスのサポートとしてヨーロッパツアーに帯同した。 1985年、 2ndアルバム『7800° Fahrenheit』を発表。タイトルの「7800°」とは、岩(ロック)も溶けてしまう温度。 アルバムに収録されている「TOKYO ロード」は、日本のファンへ感謝の意を込めて作られた。なお、本作からデヴィッドはラッシュバウムからブライアンに改名している。 バンドはアルバム発表直後に来日し、バンド初の単独公演を日本で開催した。その後、ヨーロッパツアーを行い、イギリスのドニントン・パークで開催されたロック・フェスティバル『モンスターズ・オブ・ロック』に出演。その後、ラットのサポートとして北米ツアーに帯同する。 1986年、プロデューサーにブルース・フェアバーンを迎えて制作された3rdアルバム『Slippery When Wet』(邦題:ワイルド・イン・ザ・ストリーツ)を発表。その後、西ドイツ(当時)のニュルンベルクで開催された『モンスターズ・オブ・ロック』に出演、38スペシャルのサポートアクトとして全米ツアーを敢行。このツアー中にアルバムがBillboard 200で1位を獲得し(8週連続)、シングル「You Give Love A Bad Name」(禁じられた愛)、「Livin' On A Prayer」もBillboard Hot 100で1位となり、バンドは一躍有名になった。 1987年は年始からワールド・ツアーを開始。8月にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデン3日間公演を行い、イギリスのドニントン・パークで開催された『モンスターズ・オブ・ロック』にはヘッドライナーとして出演した。9月には日本公演を行った。10月のツアー終了までにアルバム『Slippery When Wet』は全世界でおよそ1,800万枚セールスしたとされている。 1988年9月、4thアルバム『New Jersey』(ニュージャージー)を発表。Billboard 200・全英アルバムチャートで1位を獲得。シングル「Bad Medicine」(バッド・メディシン)と「I'll Be There For You」(アイル・ビー・ゼア・フォー・ユー)もBillboard Hot 100で1位を獲得。8月にはモスクワで開催された『モスクワ・ミュージック・ピース・フェスティバル』にヘッドライナーとして出演。オジー・オズボーン、モトリー・クルー、スコーピオンズ・スキッド・ロウらと共演した。9月にはジョンとリッチーがMTV Video Music Awards授賞式で「Livin' On A Prayer」と「Wanted Dead Or Alive」をアコースティック・アレンジでパフォーマンス。これを機にMTVが『MTVアンプラグド』を制作し、放送が開始された。 1990年、2年に及ぶロング・ツアーが2月に終了。合計で300を超える公演を行った。連日のハードスケジュールでメンバーが消耗しきってしまい、疲労とストレスからメンバー間の口論やトラブルも多くなり、メディアでは解散が噂される様になる。8月にジョンは映画『ヤングガン2』にインスパイアされて制作したソロ・アルバム『Blaze Of Glory』(ブレイズ・オブ・グローリー)を発表。Billboard 200で1位を獲得する。シングル「Blaze Of Glory」もBillboard Hot 100で1位となった。12月、解散騒動の最中、地元ニュージャージー州のカウント・ベイシー シアターでクリスマス・チャリティー・コンサートを開き、以後この時期のチャリティー・コンサートは恒例となる。しかし、ボン・ジョヴィの本格的な活動再開にまでは至らなかった。9月にはリッチーが1stソロ・アルバム『Stranger In This Town』を発表する。そして、同年秋にメンバーがバハマ諸島でバンドについて話し合いの場を設け、数年間ツアーやアルバム制作を一旦中止し、全員で休養を取ることに合意し、そこから再度アルバム制作をすることを誓い合った。
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