キッスとは? わかりやすく解説

キッス【kiss】

読み方:きっす

[名](スル)⇒キス


キッス

作者出久根達郎

収載図書お楽しみ
出版社新潮社
刊行年月1996.12


キッス

名前 Kiss

キッス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/09/04 21:46 UTC 版)

キッス
基本情報
別名 ウィキッド・レスター
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク
ジャンル
活動期間 1973年 - 2023年
レーベル
公式サイト キッス公式サイト
旧メンバー
ロゴ

キッス(KISS)は、アメリカ合衆国出身のハードロック・バンドである。アメリカン・ハードロック草創期から活動する、同東海岸を代表する世界的グループとして知られる。早くからロック界にフェイスペイントを取り入れ、世界観をギミックしたメディアフランチャイズ(マーチャンダイズ)を展開するなど、版権ビジネスモデルの先駆けともなった。

2014年『ロックの殿堂』入り。シングル、アルバムの売り上げは1億1000万枚にのぼる。

概要

1973年1月にニューヨークで結成されたロックバンドで、白塗りの化粧(フェイスペイント)と奇抜な衣装でストレートなロックンロール、ハードロックを演奏する。巨大なロゴを中心にした大規模なステージセットで、当初より炎やパイロテクニクスを多用している。

デビューから約10年間は、メンバーの化粧なしの素顔は一切非公開だった。1983年9月に発表したアルバム『地獄の回想』のジャケットで素顔を公開し、ライブをはじめ全ての活動を化粧なしで行ない始めた。1996年にオリジナル・メンバー4名が往年の化粧と衣装で再結成ツアーを行なったのをきっかけに、その後に加入した新メンバーを含めて再び化粧を採用した。

キャッチフレーズは、「You Wanted the Best!? You Got the Best! The Hottest Band in the World, KISS!!(最高を求めていただろう!? お前は手に入れた!世界一熱いバンド、キッス!!)」であり、1975年のライヴから現在にかけて、オープニングアナウンスとして使用されている。

彼らのファンは、キッスアーミー(KISSARMY)と呼ばれる[注 1]。

来歴

誕生前(1970年 - 1972年)

1970年、ニューヨーク、ミュージシャンとして契約を目指すジーン・シモンズの元に旧知のポール・スタンレーが加わって「ウィキッド・レスター(英語: WICKED LESTER)」という5人組ロックバンドが誕生する[注 2]。バンドはデビューを目指していたが、結局ウィキッド・レスター名義のライヴは2回しか行われなかった。

1972年にアルバムを1枚製作するも、契約する予定だったエピック・レコードに拒否され、お蔵入りとなる。バンドを脱退するメンバーも現れ、そのままの形でウィキッド・レスターを継続することが困難となる。

シモンズとスタンレーは新しいバンドで、よりストレートなハードロックへの路線変更を決意し、ウィキッド・レスターを脱退、『ローリング・ストーン』誌に告知を出していたドラマーのピーター・クリスに連絡し、合流した。3人はしばらくの間、ひたすら練習を繰り返し、他のバンドとの違いを際立たせるために顔にメイクを施し始めた。

誕生とメジャーデビュー(1973年 - 1974年)

前列左からシモンズ、エース・フレーリー、ピーター・クリス、後列スタンレー(1974年)

シモンズとスタンレーはサウンド面を強化するためギタリスト募集のオーディションを行い、リードギタリストとしてエース・フレーリーを迎えた。1973年にスタンレーの発案によりバンド名を「キッス」にした。クリスが以前在籍していたバンド「リップス」からヒントを得たと言われている。現在に至る有名なバンドロゴはフレーリーによるデザインで生まれ、スタンレーの手直しで完成した。

1973年1月30日に、キッスとして初めてのコンサートを行う。当初はただの白塗りだったメイクも、次第に現在の形に近づいていった。この年、レコード契約をつかむために懸命に活動しながら、その一環として伝手のあったエディ・クレイマーによるプロデュースの元、デモ数曲をレコーディングする。努力が実り、バンドはTVプロデューサーをしていたビル・オーコインの目に止まり、マネージャーとして迎えた。オーコインの働きにより、メジャーデビュー契約先はワーナー・ブラザース傘下で当時無名の新会社だったカサブランカ・レコードに決定、意気込んでレコーディング作業が行われる。シモンズは、とあるサーカス団員から火吹きを教わり、コンサートにおけるパフォーマンスとして取り入れた[注 3]が、同年の年末コンサートでは失敗して髪を燃やしてしまい、新聞で「ベーシストは頭に火をつけて演奏」と報じられた。

1974年、アルバム『キッス・ファースト 地獄からの使者』(Kiss)でレコードデビュー。強烈なインパクトを与えるメンバー写真のジャケットこそ注目を受けたが、当初の人気は奮わなかった。キッスとして初のツアーを開始し、初めていくつかのTVに出演、あるライヴ番組ではシモンズの火吹きの他に、クリスはドラムセットを破壊・投げ落とし、スタンレーは現在も行われているギターを地面に叩き付け破壊する強烈なパフォーマンスを披露した。しかし同年リリースの2作目のアルバム『地獄のさけび』(Hotter Than Hell)も、鳴かず飛ばずの結果だった。

黄金期(1975年 - 1979年)

アリーナギグの告知ポスター(1975年)
DRESSED TO KILL TOURより。左からシモンズ、クリス、スタンレー、フレーリー(1975年)

レコードセールスは思ったように伸びず悩んだキッスであるが、ライヴでは徐々に力を付け始め、1975年発売のアルバム『地獄への接吻』(Dressed to Kill)発表に合わせて大型ツアーである「DRESSED TO KILL TOUR」を行う。デトロイトのラジオ放送局は、アルバム収録の「激しい愛を」をシングルカットされていないにもかかわらず連日かけた結果、当地での人気が爆発する。彼らは当時、小さな田舎町をツアーで回っていたが、デトロイトでの人気を知るや、それ以降のツアーを全てキャンセル、当地での単独コンサートを行うことを決定する。

そしてデトロイト・コボホールにおけるコンサートを収録したライヴアルバム『地獄の狂獣 キッス・ライヴ』(Alive!)が、2枚組というハンディがありながら全米チャート9位に入るヒットを記録。「ロックンロール・オールナイト」がシングル・カットされて12位まで上昇し、彼等がヒットチャートのTop20に送り込んだ初のシングルになった。彼らは一躍人気バンドとなり、日本ではこれまでに発表されたオリジナルアルバム3作が一斉発売され、主要マーケットの一つとなった。

翌1976年、ボブ・エズリンをプロデューサーに迎えて制作した『地獄の軍団』(Destroyer)をリリース。収録曲「デトロイト・ロック・シティ」のシングルのB面曲だったクリス作のバラード「ベス」がラジオで人気を集め、A面曲として再発されて全米7位の大ヒットを記録した。初の世界ツアーでもある「DESTROYER TOUR」は、前年のツアーをも凌駕する観客動員数を記録した。

同年、アルバム『地獄のロックファイアー』(Rock and Roll Over)発売。同アルバムからのシングル「ハード・ラック・ウーマン」がヒットする。かつてボブ・シーガーの前座を担当していたキッスが立場を逆転し、シーガーがキッスの前座をするという現象まで発生した。

1977年、「SNEAK ATTACK TOUR」と銘打った初来日ツアーを敢行。大阪厚生年金会館、日本武道館などを超満員にする[注 4]。会場で発売されたパンフレットには演奏曲目が印刷されており、アンコールも含めて綿密に計算されたパッケージ・ショーであることが明らかだった。4月2日の日本武道館公演はNHKによりビデオ撮影され、同年5月7日に総合テレビジョンの音楽番組『ヤング・ミュージック・ショー』で編集版が放映され[7]、社会的大人気を獲得した。

LOVE GUN TOURより。左からシモンズ、クリス、フレーリー、スタンレー(1977年)

同年、アルバム『ラヴ・ガン』(Love Gun)、ライヴ録音と新曲5曲のスタジオ録音を収録した2枚組『アライヴ2』(Alive II)発売。前者は予約で100万枚を突破し、オリジナルメンバーによる作品の最大の売上げを記録する。後者からは、フレーリーが歌う新曲「ロケット・ライド」のシングルがヒット。この頃になるとキッスは全米を代表するバンドとなり、彼らの血液を赤インクに混ぜたものを使用したコミックまで発行された。日本では1970年代後半を代表するバンドの一つとして『ミュージック・ライフ』誌などで特集が組まれ、エアロスミス、クイーン、エンジェル(英語版)と並ぶ大人気を得た。

一方、このころからメンバーの衝突が起こり始めた。フロントマンで「デトロイト・ロック・シティ」「ラヴ・ガン」など数々の代表曲を作り歌うスタンレー、もう一人のフロントマンで火吹きや血糊を口から滴らせるなどの視覚効果で世間の認知度が一番高かったシモンズ、「ベス」「ハード・ラック・ウーマン」といった大ヒット曲やコンサート終盤の見せ場で披露される「ブラック・ダイヤモンド」を歌ったクリス、独特のギタープレイと雰囲気で人気を集めたフレーリー。彼ら全員が自分こそがキッスを成功へ導いたと主張した。

衝突はシモンズとスタンレー、クリスとフレーリーという二派の対立を生んだ。主導権は前者に握られており、自分達の意見をバンドに反映させにくくなった後者のフラストレーションとエゴは酷くなる一方だった。クリスとフレーリーは成功により手にした大金で次第に酒やドラッグに溺れていった。シモンズは後年、二人について言及し、「キッスはオリンピックの様なものであり薬物やアルコールの過剰な摂取は許されない」とコメントした。

ALIVE II TOURより。左からシモンズ、フレーリー(1978年)

1978年春、5回の武道館公演だけからなる2度目の日本ツアーを行うが、メンバーの人間関係は最悪の状態だった。楽屋では物を投げ合い、つかみ合いの喧嘩が行われたという。

現状を打破して人間関係を修復するため、またソロ活動を望むフレーリーをなだめるために、メンバー全員がソロ・アルバムの制作する企画を発表[注 5]し、人気絶頂でありながら当分のライヴ活動休止を宣言する。スタンレーは後に「ここでソロ・アルバムを発表して落ち着かなければキッスは確実に解散していた」と回顧している。

1978年9月、各メンバーのソロ・アルバムが同時発売。フレーリーのアルバムからラス・バラードの「ニューヨーク・グルーヴ」のカヴァーがヒット。自信をつけた彼は、さらに独立を志向し始めた。同年、リミックスを施した初のベストアルバム『ダブル・プラチナム』発売。この頃にはレコード制作とライヴに止まらず、NBCによる映画『地獄の復活(英語版)』の制作、MEGO社からのメンバーを模した人形の発売、遊園地「KISS WORLD」の建設構想など音楽活動以外の企画が次々打ち出された。キッスはハードロック・バンドというよりは、次第にファミリー向けキャラクター商品の素材と化していった。

DYNASTY TOURより。左からフレーリー、クリス、シモンズ(1979年)

1979年、2年ぶりのオリジナルアルバム『地獄からの脱出』(Dynasty)発売。ソロ・アルバムの延長のような作品で、スタジオでメンバー全員が顔を合わせることは無かった。クリスはアルコールや麻薬の影響で満足に演奏できず、自作「ダーティ・リヴィン」のみに参加。残りの収録曲ではフレーリーのソロ・アルバムに参加したアントン・フィグが代役を務めた。スタンレーがデズモンド・チャイルドを見出し共作した「ラヴィン・ユー・ベイビー」は、2人が当時のマシンミュージック全盛のディスコ・ブームに一石を投じようと意気投合して作ったディスコ調ロックで、同シングルは世界中で大ヒットを記録した[注 6]。しかし、合わせて行われた「DYNASTY TOUR」の観客動員は伸び悩んだ。やがてキッスは混乱と低迷の時代を迎える。

バンド再編〜ノーメイク時代 - 第二黄金期(1980年 - 1990年)

1980年、薬物依存や人間関係・体力的な問題などにより、バンド継続が不可能であると判断したシモンズ、スタンレー、フレーリーの3人とマネージメントは、クリスの解雇を決定。その直後にアルバム『仮面の正体』(Unmasked)の制作を開始。クリスは不参加で[注 7]、前作に続いてアントン・フィグが代役を務めた。

クリスの脱退は、契約上の問題からアルバム発売1週間後に報じられた。前作同様、ポップスへの傾向を強めたアルバム自体の評価も芳しくなかった。アメリカでのキッスの人気は急激に下降し、彼らは低迷期に突入。暫くは3人だけで活動していたが、オーディションにより、後任の2代目ドラマーとしてエリック・カーを迎えた。

アメリカ本国での「UNMASKED TOUR」は以前ほどの勢いは見られず失敗。主要マーケットであるアメリカと日本での人気は完全に下火へ向かっていた。逆にオーストラリア、ブラジル、ヨーロッパなどでは大ヒットを記録し、この時のオーストラリア&ニュージーランドツアーは彼らの史上最も華々しいツアーと言われるほど大成功した[注 8]。この時期には、ソロ・アルバムの成功で自信をつけていたフレーリーのリード・ヴォーカル曲を増やすなど、親しかったクリスを失い、ソロ志向の強まる一方だったフレーリーをバンドに繋ぎ止めようと前面に押し出していた形跡が見られる。

翌1981年、ニュー・アルバムの制作を開始。当初はこれまでよりもハードなロック・アルバムの予定であったが、制作途中からマネージャーの意向により路線を変更。シモンズが以前から温めていた構想を基に、グループの歴史上唯一のコンセプトアルバム『〜エルダー〜 魔界大決戦』を完成しリリースする。

このアルバムの収録曲は、シモンズ原案の映画『The Elder』のために書き下ろされた楽曲だった。同映画の企画は曲が完成した直後に中止となり、曲を無駄にしたくないマネージャーとシモンズが同映画のストーリーに沿ったコンセプト・アルバムの発売を決めたという経緯だった。シモンズ以外のメンバーは発売に全く乗り気ではなかった[注 9]が、彼に押し切られた。『地獄の軍団』に続いてエズリンがプロデューサーに起用され、前作までにはなかった叙事詩風のプログレッシヴ・ロックが展開される意欲的な内容だったが、中途半端なイメージの変化で売り上げは歴代最低を記録した。本作に伴うツアーは行われなかった。メンバーは後のインタビューで「あの作品は失敗だった」と語っている。

ストレートなロック志向のフレーリーはキッスに興味が持てなくなっていた。この頃、バンド内のパワーバランスは完全にシモンズ・スタンレー組VSフレーリーになっており、彼の意見は取り上げられることが少なくなっていた。

1982年、ハード&ヘヴィへの原点回帰を打ち出したアルバム『暗黒の神話』発売。フレーリーはレコーディングには一切関わっておらず[注 10]、共作者兼レコーディング・ギタリストとして起用したミュージシャンの一人であるヴィンセント・クサノ(後のヴィニー・ヴィンセント)が大半の曲でリードギターを担当した。同アルバムはヘヴィメタル色の強いものとなり、現在では良作とされているが、当時は宣伝効果も虚しく非常に低い売り上げに終わった。

フレーリーの姿は『暗黒の神話』のジャケット写真[注 11]と収録曲「勇士の叫び」のPV、同年に日本とオーストラリア限定で発売されたベスト盤『キッス・キラーズ』に見られるが、彼はジャケット写真の撮影とTV出演の直後に脱退していた。この事実は契約の都合でしばらく伏せられた。ヴィンセントの腕はメンバーに認められてはいたが、彼は正式メンバーとしてではなく、あくまでもフレーリーの代役としてツアーに参加。『暗黒の神話』での彼の作詞作曲や演奏に対する貢献度は高かったが、加入後の態度はこの後シモンズとスタンレーを大いに悩ませることとなる。なおこの頃から演奏のテンポが速くなり、楽曲のキーが半音上がった[注 12]。

1983年、フレーリーの脱退が公式に報じられた。ツアー契約があったために急遽ギタリストが必要になり、ヴィンセントが2代目リードギタリストとして加入。アメリカや日本での人気が低迷していた中、反対に人気が最高潮だったブラジルのリオ公演で過去最大の13万人を動員した。

『地獄の回想』期。左からエリック・カー、一人おいてシモンズ、ヴィニー・ヴィンセント、スタンレー(1983年)

ここでスタンレーとシモンズは、これまで秘密として隠し通してきた素顔を見せることを決心し、アルバム『地獄の回想』のジャケットで素顔を公開した。スタンレーは後年,「飽きられてきていたし、音楽そのもので勝負する時期にきていた。素顔になる心構えはできていて、後はジーンの気持ち次第だった」と明かしている[8]。前作『暗黒の神話』のヘヴィな路線を継承しつつ、よりシャープな演奏を披露した内容や、素顔公開の話題、LAメタルを含んで当時爆発直前であった世界的なヘヴィメタル・ブームにより、バンドは再び上昇気流に乗り始めた。しかしシモンズとスタンレーは、協調性がなく自己顕示欲の強いヴィンセントをツアー終了後に解雇した[注 13]。

ノーメイク時代『アニマライズ』期。左からシモンズ、カー、スタンレー、マーク・セント・ジョン(1984年)

1984年、スタンレーのレコード会社の知人からの紹介でマーク・セント・ジョンを3代目リードギタリストとして急遽加入させ、アルバム『アニマライズ』を完成させる。同アルバムは100万枚の売り上げを記録し、キッスの80年代最大のヒットとなった。しかしセント・ジョンが「Animalize Tour」直前のリハーサル中に難病による関節炎を発症し演奏が困難になったため、ツアーの代役として後に4代目リードギタリストとなるブルース・キューリックを起用する。セント・ジョンは初日からステージに上がれず、3公演のみの参加に終わった[注 14][注 15]。彼は結局、加入からわずか8カ月で脱退した。

1985年、キューリックを正式メンバーに迎えて、アルバム『アサイラム』発表。1980年代はシモンズ、スタンレー、カー、キューリックの顔ぶれで定着した。

ノーメイク時代『クレイジー・ナイト』期。左からスタンレー、シモンズ、カー、ブルース・キューリック(1988年)

1987年、ハートなどをプロデュースしたロン・ネヴィソンを起用して、メタル色を若干薄めてシンセサイザーを導入した作品『クレイジー・ナイト』を発売。同アルバムはプラチナム・アルバムを記録する大ヒット作になり、イギリスではチャート4位になった。しかしプリプロダクションではもう少しハードな音だったらしく、メンバーは音の仕上がりにはあまり満足していない。

1988年、4月に10年振りとなる来日公演を果たし、5月に日本限定の来日記念ベスト盤『パワー』を発売。11月には、カーのボーカルによる1976年の大ヒット曲「ベス」と新曲を2曲収めたベストアルバム 『グレイテスト・キッス』発売。

1989年、原点回帰を目標にしたストレートなロックンロール・アルバム『ホット・イン・ザ・シェイド』発売。スタンレーがマイケル・ボルトンと共作したバラード「フォーエヴァー」が、「ベス」以来の全米TOP10シングルとなる8位を記録する大ヒットとなった。この頃から楽曲のキーが元に戻る。

しかしツアー観客動員数は若干減り、盛り返した人気は一段落する。その一方、カーは心臓血管に悪性腫瘍が見つかり入院してしまう。

現在のメディアでは「1980年代は低迷期だった」とされているが、売り上げが低かった作品はメイク時代末期の『仮面の正体』(1980年)、『〜エルダー〜 魔界大決戦』(1981年)、『暗黒の神話』(1982年)の3作品に留まっている。素顔で発表した『地獄の回想』(1983年)、『アニマライズ』(1984年)、『クレイジー・ナイト』(1987年)はプラチナムを獲得し[注 16]、北米以外の海外ツアーでは相変わらずの大人気を博していた。素顔でも常に第一線で活動し続けており、データからも一概に「低迷期」とは言えないであろう。

エリック・カーの死と音楽シーンへの“逆襲”(1991年 - 1994年)

カーの容態は一時回復に向かい、彼はキアヌ・リーブス主演の映画『ビルとテッドの地獄旅行』に提供されたアージェントのカヴァー曲「ゴッド・ゲイヴ・ロックンロール・トゥ・ユー」のバッキングヴォーカルとPV撮影に参加した。しかし1991年11月、彼は手術の甲斐もむなしく他界する(41歳没)。

メンバーはカーの死を悼みながらも悲しみを乗り越え、カーが入院中に代理ドラマーに起用したエリック・シンガー[注 17]を3代目ドラマーとして正式に迎え入れる。同年12月、当時の音楽シーンや善良なカーの命を奪った運命への「逆襲」の意を込めて、エズリンをみたびプロデューサーに起用して元メンバーのヴィンセントとの共作を含むアルバム『リヴェンジ』の制作を開始。同アルバムは翌1992年3月に完成して5月19日にリリースされ。アルバムとしては『地獄からの脱出』以来実に13年ぶりに全米ビルボードTop200のトップ10入りを果たした。

1993年、バンドとして安定して演奏レベルの高かったREVENGE TOURのライヴを収録した『アライヴ3』発売。

1994年、KISS MY ASS TOURを行う。それと同時に、トリビュート・アルバム『キッス・マイ・アス』が発表される。このアルバムには、エクストリームやYOSHIKIなどが参加している。

オリジナル・ラインナップの再結成(1995年 - 1999年)

左上フレーリー、右上シモンズ、左下クリス、右下スタンレー

1995年1月、シモンズ、スタンレー、キューリック、シンガーによる来日公演が行われた。ツアー初日の大阪公演は、阪神大震災の一週間後であり、被災者に配慮して炎の使用を控えた他、武道館公演でリハーサルを録音し、ダイヤルQ2による被災地支援チャリティを行った。

この年2月から、「KISS Convention」というイベントを行い、ファンと直に触れ合う機会を持ったシモンズとスタンレーは、1970年代以来のファンから「オリジナルメンバーの再結成はないのか」と問われるようになる。だが二人は以前からそうした話題が起きる都度否定し、またテレビ局から100万ドルのギャラを提示されて、オリジナルメンバーでの出演をオファーされるも即座に断ったりしており、オリジナルメンバーでの再結成はないと思われていた。

しかし、「KISS Convention」の小規模なアコースティック・ライヴにクリスが飛び入りして「ハードラック・ウーマン」を歌い、それがきっかけで8月に行われた『MTVアンプラグド』の数曲でフレーリーとクリスが客演した。そして再結成を強く希望するスタンレーが反対するシモンズを説き伏せ、ついにオリジナルメンバーによる再結成が決まった。この動きが進行していた11月には、ニルヴァーナに代表されるグランジ・ロックブームを意識した新作アルバム『カーニヴァル・オブ・ソウルズ』の制作が開始された。しかし再結成の決定によりキューリックとシンガーは脱退という事態になり、完成した同アルバムは発売の機を逸してしまった。

1996年3月、MTVアンプラグド・ライヴの模様を収めたライヴアルバムとライヴビデオ『停電 (地獄の再会) 〜 Kiss アンプラグド』を発売。6月、シモンズ、スタンレー、フレーリー、クリスのラインナップで13年振りにメイクを施して行う大規模なリユニオン・ワールド・ツアー「ALIVE/WORLD WIDE 96-97」がスタート。1980 - 1990年代のステージでは、テンポを上げてスピーディな演奏を繰り広げていたが、この再結成以降は演奏のテンポをオリジナルのものに戻している。

1997年にはオリジナルメンバーとしては19年振りとなる来日公演が実現した。クリスのドラミングには全盛期のキレはなく、フレーリーの動きも鈍くなっていたが、オリジナルメンバーが再集結して往年のメイクを施して行ったツアーは世間に大熱狂と共に受け入れられ、大成功のうちに終了した[注 18]。

1997年10月28日、お蔵入りとなっていた『カーニヴァル・オブ・ソウルズ』が、当時出回っていた海賊盤対策としてリリースされる。内容は徹頭徹尾グランジに阿った代物で、どの楽曲もスタンレーやシモンズの歌声がなければキッスのものと判別出来ないほどだった。オリジナルメンバーが大盛況のツアーを行っている状況でこのアルバムが売れる要素はなく、注目されることは無かった。2020年現在、本作の収録曲は1曲たりとも演奏されたことはなく、本作は存在しなかったのも同然ということになっている。

PSYCHO CIRCUS TOURより。左からシモンズ、フレーリー、スタンレー(1999年)

「ALIVE/WORLD WIDE 96-97」の終了後、仕切り直しとして前回のツアーで行けなかった土地だけを廻る「LOST CITIES TOUR」を開始。コロンバス公演のリハーサル中、クリスがたびたび訴えていた腕の不調が最悪の状態になり、ドクターストップを宣告される。この日のライヴは、エディー・キャノンというドラマーがCatmanのメイクを施して一夜限りの代役を務めた。

オリジナルメンバーでのアルバム発売が望まれる中、1998年9月22日に『サイコ・サーカス』発売。全米初登場3位にランクインし、同アルバム名を掲げた「PSYCHO CIRCUS TOUR」も無事成功を収めた。しかしスタンレーによるとオリジナルメンバーでのレコーディングは大変に困難な状況であり、その精神的苦痛からキッスとしての新作が作られることは2009年までなかった。

オリジナル・ラインナップの再崩壊(2000年 - 2004年)

21世紀突入直前の2000年、解散を宣言。解散ツアー「THE FAREWELL TOUR 2000-2001」を開始したが、ツアーが中盤に差し掛かった10月にクリスが再び脱退、やむなくツアーは中断となった。そんなある日、スタンレーが車を車検に出した時に従業員が「30周年ツアーはするのか?」と聞いてきたことがきっかけとなり、グループは解散宣言を撤回、永久活動を宣言する。そして脱退したクリスの後任には元メンバーのシンガーがCATMANメイクで復帰した。

2001年3月、シモンズ、スタンレー、フレーリー、シンガーというメンバーで「THE FAREWELL TOUR」来日公演を行う。

11月、貴重なデモやライヴ音源を含めた500セット限定の豪華ボックスセット『地獄のギター・ケース』発売。ウィキッド・レスター時代の曲やお蔵入りデモ、キッス名義での初ライブ[注 19]、その他デモやアルバム未収録曲が多数収録されており、マニア感涙のコレクターズアイテムとなった。同時に廉価版である『地獄のシガー・ボックス』も5,000セット限定で発売。

2002年、ソルトレイクシティ・オリンピックの閉会式にて、「ロックンロール・オールナイト」を演奏。契約の切れたフレーリーがソロ活動に集中するため再契約に応じず、このステージを最後に再び脱退する。元ブラック・アンド・ブルーのトミー・セイヤー[注 20]が代役を務め、そのまま5代目リードギタリストに抜擢された。セイヤーはキッスのトリビュートバンドCOLD GINにいた経験もあり、オリジナルメンバー再結成のリハーサルで在籍時のギターフレーズを忘れていたフレーリーにレクチャーし、ツアー中もフレーリーが不調で演奏できなくなった時の代役として、メイク姿で舞台袖で待機していた。同時期にクリスが2度目の復帰を果たし、シンガーは2度目の脱退に至った。

2003年、シモンズ、スタンレー、クリス、セイヤーのラインナップで世界ツアー「WORLD DOMINATION TOUR」を行う。前半は「RCKSIMUS MAXIMS TOUR」というツアー名でエアロスミスと対バンという豪華なものだった。2月のメルボルン公演ではメルボルン交響楽団と共演して、キッス・シンフォニーと銘打って生のシンフォニック・ハードロック・ライヴを見せた。この模様は『アライヴ4 〜地獄の交響曲〜』というタイトルでCDとDVDに収められる。3月には来日公演を行った。日本では「ALIVE IN JAPAN 2003」と銘打たれていた。

同年10月16日、元メンバーで当時グランド・ファンク・レイルロードに在籍していたキューリックが、偶然居合わせたロサンゼルスの某クラブで発生した発砲事件に巻き込まれた。彼は脚を撃たれて頭部にも掠り傷を負ってしまった[9]が、幸い命に別状はなかった。

再びスタンレー・シモンズ体制へ(2004年 - 2017年)

ROCK THE NATION WORLD TOURのボストン公演。左からシモンズ、スタンレー、セイヤー、シンガー(2004年)

2004年、クリスが3度目の脱退。代わりシンガーが3度目の復帰を果たし、ドラマーは彼に固定された。世界ツアー「ROCK THE NATION WORLD TOUR」を行い、ワシントンD.C.公演とLAフォーラム公演を収録したライヴDVD『地獄の狂宴 〜ロック・ザ・ネイション・ライヴ!』発売。このツアーでは「彼女」や「すべての愛を」[注 21]など、演奏されなくなって久しい曲を久しぶりにステージで披露した。メルボルン公演では前年同様キッス・シンフォニーを披露、この公演ではメイク復活後にセットリストから外された「真夜中の使者」と、これまで一度も演奏していない「ステイト・オブ・ロックンロール」を披露した。

2006年、クリーブランドのロックの殿堂博物館前で、ファン200人によるキッスのロック殿堂入りを要求するデモが行われた。十分な資格と功績のあるキッスが殿堂に招かれなかったことに対し、ボードを掲げて30分の抗議活動を行った[注 22]。なお、キッスは何度もノミネートされているにもかかわらず、ラッシュ(2013年に殿堂入り)などと共にロックの殿堂入りを果たしていないことを最も疑問視されていたアーティストの1つであり、ニュースサイト「Oh No They Didn't」では「ロックの殿堂入りしていない偉大なバンドTop10」で第2位に選ばれていた[10]。

同年7月23日、日本独占ツアー「RISING SUN TOUR」最終公演の2日間に、ウドー・ミュージック・フェスティバルに出演。しかし、ツアー最終日であるフジ・スピードウェイ公演での集客数は、これまでの来日公演を大きく下回ることになる。この模様は、スカイパーフェクTV!で放送された。翌年に掛けて、1973年から2000年までの貴重なライヴ映像を収めた『KISSOLOGY』シリーズを3巻に分けてリリース(後に日本盤も発売された)。

2007年、5公演のみのアメリカツアー「HIT 'N TUN TOUR」を行う。その最終公演であるカリフォルニア公演当日のリハーサル中に、スタンレーの心拍数が突如通常の2〜3倍の190を超え、彼は急遽病院に搬送される。シモンズが観客に事情を説明し、「キャンセルしてやり直すか、このまま続けるか」尋ねた結果、キャンセルもせず代役も立てず、スタンレーを除く3人で決行することとなった。スタンレー不在のライヴはキッスの歴史上初であり、最大のハプニングとなった。演奏曲にはシモンズとシンガーで歌えるものが選ばれたが、ステージに観客も上げるなど破天荒なライブだった模様。スタンレーは「この借りはいつか必ず返すよ」とコメントを残した。

同年4月5日、元メンバーのマーク・セント・ジョン(マーク・ノートン)が脳出血で他界(51歳没)。

ALIVE/35 WORLD TOURより。左からシモンズ、セイヤー、スタンレー(2008年)

2008年、結成35周年ツアー「ALIVE/35 WORLD TOUR」開始。オーストラリアツアーでは『KISSTERIA』というドキュメンタリー風ドラマを撮影した。

ツアー前半では、2代目“スペースマン”ことセイヤーが、初代であるフレーリーが書いた楽曲で初めて自らリードボーカルを担当した「ショック・ミー」のリードボーカルをとる。

同年8月、新たに録音されたベスト盤『地獄烈伝』が日本限定発売。

2009年、「ALIVE/35 WORLD TOUR」を続けながら、11年ぶりのスタジオ・アルバムである『ソニック・ブーム』を10月6日に発売、初期のコンセプトのように、メンバー全員がそれぞれリード・ボーカルをとる曲が含まれ、またスタンレーとシモンズの共作も復活した。バンド史上最高位となる全米初登場2位を記録したが、日本ではレコード会社との契約がなされておらず、日本盤は未だ発売されていない。

2010年、「SONIC BOOM OVER EUROPE TOUR」と「THE HOTTEST SHOW ON EARTH TOUR」でヨーロッパとアメリカを精力的にツアー。

2011年4月、新たなスタジオ・アルバム製作に取り掛かる。

同年10月、初の試みであるKISSクルーズをマイアミで開催。貸切の豪華客船上でアコースティックショーを含む3回のライヴを行った。船上ではハロウィーンパーティやファン同志の交流も行われ、メンバーも参加したファンも満足するものとなり、すぐに翌年の開催が決定され、以降は恒例行事となった。

THE TOURより。左からシモンズ、セイヤー、スタンレー(2012年)

2012年、3月にモトリー・クルーとのダブルヘッドライナーツアー「THE TOUR」を発表。

7月2日、新たなスタジオ・アルバム『モンスター 〜地獄の獣神』からの第一弾シングル「ヘル オア ハレルヤ」発表[11]。

7月20日-10月1日、「THE TOUR」でモトリー・クルーと共に北米と南米でツアーを行った。

10月10日(北米での発売は9日)、3年ぶり20作目のスタジオ・アルバム『モンスター 〜地獄の獣神』発売。全米ビルボードTop200で初登場3位を記録する。製作自体はもっと早く終わっていたが、レコード会社と契約を結ぶのに時間がかかったために発売が遅くなった。しかし、それにより日本盤も無事発売となった。

2013年10月、前年11月から続く「MONSTER WORLD TOUR」の終わりに、7年ぶりとなる来日公演を行なった。ファンイベントを行ったり、ファッションショーやTVの音楽番組に生出演したりと今までとは違う行動が多数見られたが、ライヴでは全ての会場でスパイダーセットと共にバンドの底力を見せつけた。10月24日の武道館公演はWOWOWの生中継で放送され、同時に全国のイオンシネマ30劇場で同時上映、収益金は東日本大震災の被災地支援団体に寄付された[12]。

2014年4月、『ロックの殿堂』入りを果たし、スタンレー、シモンズ、クリス、フレーリーのオリジナル・メンバーが顕彰された。式典ではレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのトム・モレロがプレゼンターを務め、4名が一堂に会した[13]ものの、殿堂側との問題により演奏は行われなかった。6月23日、結成40周年記念ツアーの「THE KISS 40TH ANNIVERSARY TOUR/HEROES TOUR」が開始。デフ・レパードとのダブルヘッドライナーで、大盛況のうちに行われる。

2015年、ももいろクローバーZとのコラボレーションを行い、ももいろクローバーZ vs KISS名義でシングル「夢の浮世に咲いてみな」をリリース[14]。2015年3月3日には、来日公演でももいろクローバーZがゲスト出演[15]。

オレゴン州軍楽隊と共演。左からシモンズ、セイヤー、スタンレー(2016年7月)

2016年、オレゴン州のアリーナ級ライブで同州軍警備隊の軍楽隊と共演して話題となる。また、翌年に同地域のチャリティー・イベントで、久しぶりとなるノーメイクでのパフォーマンスを見せた[16]。

終焉(2018年 - 2023年)

2018年、来年度からのワールドツアーをもっての活動停止を発表[17]。2021年7月の地元ニューヨーク公演が最後になると伝えられた[18]。

2019年、ファイナルツアー「END OF THE ROAD WORLD TOUR」を開始。年末の来日ツアー[19]と第70回NHK紅白歌合戦の客演[20]が、日本での最後のパフォーマンスとされた。

2020年、世界的に大流行した新型コロナウイルス感染症拡大の余波を受けてツアーのスケジュールが変更され、最終公演は2022年以降に持ち越し[21]。

2022年、コロナ禍が収斂し、シモンズは「ツアーの引退はするが、他の形で続いていく」と引退計画の軌道修正を公言[22]。最後の来日公演を2020年としていた計画も変更され、11月末にアンコールとして一夜限りの東京ドーム公演が実現した[23]。

2023年3月、最終公演の日程を発表し、12月1日・2日開催の地元ニューヨーク マディソン・スクエア・ガーデンが最後の地と伝えた[24]。

そして予定通り最後のコンサートでグランドフィナーレを飾り、50年の歴史に幕を下した。メンバーによる活動は事実上終了し、今後はデジタル・キャラクターによるアバター達が、デジタル・バンドで活動する予定と公表した[25]。

メンバー

最終メンバー

名前 プロフィール 担当 在籍期間
ポール・スタンレー
(英語: Paul Stanley)
1952年1月20日(74歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク市クイーンズ
ボーカル
リズムギター
1973年 - 2023年
ジーン・シモンズ
(英語: Gene Simmons)
1949年8月25日(77歳)
イスラエルの旗 イスラエル ハイファ
ボーカル
ベース
1973年 - 2023年
エリック・シンガー
(英語: Eric Singer)
1958年5月12日(68歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 オハイオ州クリーブランド
ドラムス
ボーカル
1991年 - 1996年
2001年 - 2002年
2004年 - 2023年
トミー・セイヤー
(英語: Tommy Thayer)
1960年11月7日(65歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 オレゴン州ポートランド
リードギター
ボーカル
2002年 - 2023年

途中で脱退したメンバー

名前 プロフィール 担当 在籍期間
エース・フレーリー
(英語: Ace Frehley)
1951年4月27日 - 2025年10月16日(74歳没)[26]
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク市ブロンクス区
リードギター
ボーカル
1973年 - 1982年
1996年 - 2002年
ピーター・クリス
(英語: Peter Criss)
1945年12月20日(80歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク市ブルックリン区
ドラムス
ボーカル
1973年 - 1980年
1996年 - 2001年
2002年 - 2004年
エリック・カー
(英語: Eric Carr)
1950年7月12日 - 1991年11月24日(41歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク市ブルックリン区
ドラムス
ボーカル
1980年 - 1991年
ヴィニー・ヴィンセント
(英語: Vinnie Vincent)
1952年8月6日(74歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 コネチカット州ブリッジポート
リードギター
ボーカル
1982年 - 1984年
マーク・セント・ジョン
(英語: Mark St. John)
1956年2月7日 - 2007年4月5日(51歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ハリウッド
リードギター
ボーカル
1984年
ブルース・キューリック
(英語: Bruce Kulick)
1953年12月12日(72歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ブルックリン区
リードギター
ボーカル
1984年 - 1996年

ツアー・サポートメンバー

名前 プロフィール 担当 在籍期間
ゲイリー・コルベット
(英語: Gary Corbett)
1958年7月15日 - 2021年7月14日(62歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 テネシー州
キーボード 1987年 - 1990年
デレク・シェリニアン
(英語: Derek Sherinian)
1966年8月25日(59歳)

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ラグナ・ビーチ

キーボード 1992年

メンバーの変遷

ALIVE 35 WORLD TOURより。左からシモンズ、スタンレー(2008年)

オリジナル・メンバーは全員が正式メンバーだったが、クリスとフレーリーが脱退した後に加入したメンバーは全て契約メンバーであり、法律上はシモンズとスタンレーだけが一貫して正式メンバーである[注 23]。

1980年代以降、シモンズとスタンレー以外のメンバーの入れ替わりは激しく、この2人の方針に沿わないプレイヤーはたとえ才能があっても容赦なくお払い箱にされた。

オーディションを受けたミュージシャンの中に、クリス脱退時にはボビー・ロンディネリ[注 24]、フレーリー脱退後にはリッチー・サンボラ、スラッシュ、マーティ・フリードマンら[注 25]がいた。審査に際してはバンドの統一感の維持が重要視され、フリードマンによると「長い黒髪か」「髭は剃っているか」「身長が6フィート(約183cm)以上あるか」などの厳しい条件があった。スタンレーは、入院したカーの代理に金髪のシンガーを選んだ時にそのような制約から自由になったのだと語っている。

オリジナル・メンバーによる再結成を果たした1995年以降は、同一メンバーが加入と脱退を繰り返すという出入りの激しさも目立つが、これは前述の事情により、ツアーやレコーディングごとのメンバーの契約によるものである。

年 ベース リズムギター リードギター ドラムス
1973 - 1980 ジーン・シモンズ ポール・スタンレー エース・フレーリー ピーター・クリス
1980 - 1982 エリック・カー
1982 - 1984 ヴィニー・ヴィンセント
1984 マーク・セント・ジョン
1984 - 1991 ブルース・キューリック
1991 - 1996 エリック・シンガー
1996 - 2001 エース・フレーリー ピーター・クリス
2001 - 2002 エリック・シンガー
2002 トミー・セイヤー
2003 ピーター・クリス
2004 - 2023 エリック・シンガー

ペルソナ(キャラクター)

デビュー当時からメンバー全員が顔面白塗りの奇抜なメイクをしていることで有名だった。メイク時代のメンバーの姿はペルソナと呼ばれ、それぞれに名前とキャラクターが与えられている。

  • The Starchild(ポール・スタンレー) – 愛の戦士。他人の心を読むことができ、星の右眼から光線を発する。
  • The Demon(ジーン・シモンズ) – 地獄からやって来た悪魔。獣の咆哮をあげ、空を飛び、炎を吐く。
  • The Spaceman(エース・フレーリー、トミー・セイヤー) – ジェンダル星出身の宇宙人。瞬間移動能力を持ち、両手から光線を発する。フレーリーはSpace Aceと表記されることもある。
  • The Catman(ピーター・クリス、エリック・シンガー、エディー・キャノン) – 猫の怪人。両腕の鋭い爪が武器。1998年にファンタジーコミック化した際は、敵として登場。パンダやタヌキと誤認されるケースが多い。
  • The Fox(エリック・カー)/狐の怪人以外の詳細は不明。
  • The Wizard(ヴィニー・ヴィンセント) – エジプトの戦士Anka Warriorという設定以外の詳細は不明。魔術師であるのかもしれないとも考えられていた。

上記の設定は1977年からのもので、それ以前は、シモンズのペルソナはThe Dragon、スタンレーのペルソナはThe Loverと呼ばれていた。スタンレーはごく初期にカサブランカ社長ニール・ボガートの要請により、「ローン・レンジャー」に出てくるマスクに似ているバンディット(山賊)メイクをしていたが、当人が気に入らず、短期間ですぐ右目星型メイクに戻した。

1970年代の日本の雑誌のインタビューでは、バンドのメイクに歌舞伎から発想を得ていると書かれていた。しかしシモンズは自伝『KISS AND MAKE‐UP―ジーン・シモンズ自伝』[27]、スタンレーは後年の度重なるインタビューで、それぞれ否定している。

  • メイクアップ・デザイン

マーチャンダイズ

本業の音楽以外に早くから版権ビジネスに目をつけ、マーチャンダイジング(マーチャンダイズ)で成功した音楽グループの先駆けでもある[28]。バンドの世界観やメンバー4人をキャラクター化したものを、グッズ販売やメディアフランチャイズで展開し大きな収益を得ている。これまでのグッズは通算で5000点以上あり(2016年時点)ライセンス事業も手掛け、興行収入は往年のビートルズやエルビス・プレスリーを上回るとされている[29]。

グループのマーケティングに関しては、主にシモンズが決定権を持つ。彼はインタビューで「女性ウケするアイドル的スタイルだと一過性で終わるが、男性が憧れる存在で成功すれば彼らは最後まで付いて来てくれる。だからアメリカン・ヒーローのようなペルソナメイクのキャラクターを作った。そこから商標化のアイデアが生まれた」、「ファンの購買意欲を湧かすような、クールであるかの見極めも重要だ。世界的には大成功していないグループでも、ロゴが売れた例は数多くある。だからたとえ有名ブランドであるとしても(例フォードのロゴをTシャツに入れても)、必ずしも商標ビジネスには直結しない」と説明している[30]。

  • 商品化した一例

備考・補足

販促ポスター。左上から時計回りにスタンレー、シモンズ、フレーリー、クリス(1975年頃)
  • 結成当初のバンドのコンセプトは「アメリカ版ビートルズ」だった。楽器の編成も同じで、ヴィンセントとセント・ジョン以外の歴代メンバー全員のリードボーカル曲がある。ヴィンセントもデモ段階の楽曲の一部のリードボーカルを取っていた。
  • ニューヨークで結成されたが、代表曲の一つ「デトロイト・ロック・シティ」に象徴されるように、特にデトロイトで絶大な人気を持っていた。
  • 彼らの影響力が強いころに見い出されたバンドの一つにヴァン・ヘイレンがある。シモンズが出資してデモ・テープを作らせ、各レコード会社に送付したが、どのレコード会社も興味を示さなかった逸話がある。なお彼は素顔を公開する前に、同バンドのベーシストであるマイケル・アンソニーと同一人物ではないかと噂されていた時期があった。
怪獣ブーツをはいたシモンズ
  • シモンズは恐怖映画やゴジラのファンであり、有名な怪獣ブーツのモデルはゴジラである。
  • セカンドアルバム『地獄のさけび』(Hotter Than Hell)のジャケットに日本語が多数使われているのは、撮影を担当したノーマン・シーフのアドバイスによるもの。シーフは当時日本で横尾忠則と知り合い、その影響をこのジャケットに反映させた。
  • 日本ではアルバムの邦題が「地獄」シリーズであることでも有名。"Hotter Than Hell"に『地獄のさけび』という日本語のアルバムタイトルが付けられていたことがきっかけとなり、後に初期の3作が日本でまとめて発売された際に、「地獄」とは何の関連もない”Kiss”と”Dressed to Kill”にも『地獄の…』という邦題が付けられた。ステージにおけるシモンズの過激なパフォーマンス[注 26]の鮮烈さも相俟って、これらの邦題はややもすると的を射たものであると解釈する向きもある。しかし彼が自伝の中で述べている限りでは、ステージで行われる数々のパフォーマンスはあくまでも「ショーのアトラクション」という位置づけにある。従ってキッスのコンセプトと地獄に直接の関係はないと推測される。
使用されている日本語

パロディ

ディスコグラフィ

スタジオ・アルバム

ライブ・アルバム

コンピレーション・アルバム

ツアー

来日公演

単独公演

フェス

脚注

注釈

  1. ↑ 公式ファンクラブの名前でもある。
  2. ↑ 当初はレインボーRAINBOWという名前であったが、2回目のライヴを行った後に同名のバンドがいることを知ったため1971年に改名。
  3. ↑ 本来、誰がやるかは決まっておらず、シモンズしか手を上げなかったため彼に決まった。
  4. ↑ オープニング・アクトにはデビュー間もないBOWWOWが起用された。
  5. ↑ 既に1978年初頭にはソロ・アルバムのレコーディングを行っており、来日時にもスタジオを借りてレコーディングしていた。
  6. ↑ この後チャイルドはスタンレーの紹介によりボン・ジョヴィと共作し、世界的に有名なコンポーザーとなったが、スタンレーとの関係は長年続いていくこととなる。
  7. ↑ 収録曲「シャンディ」のPVには出演。
  8. ↑ この時期のオーストラリアでの大ブームの影響か、当時のヒット曲「シャンディ」は現在でもオーストラリアツアーでは必ず演奏されている。
  9. ↑ 新メンバーのカーもこのアルバムの方向性に疑問を呈したという。
  10. ↑ 飲酒と薬物摂取の影響によるとする向きもあり。
  11. ↑ アメリカ盤のジャケットは1985年に再発されたものから素顔をフィーチャーしたものに差し替えられ、当時のメンバーだったブルース・キューリックが写っている。曲順が変更され、リミックスが施されている。
  12. ↑ これまでのライヴではレギュラーチューニングから半音下げで演奏していた.
  13. ↑ 解雇はツアーの途中に決まったが、後任が決まらず、ツアーのキャンセルもできなかったため、ツアー終了まではそのままグループに同行させた。
  14. ↑ うち1公演では、スタンレー、キューリック、セント・ジョンのトリプルギター編成で演奏している。
  15. ↑ 同年12月8日には、かつて『地獄の狂獣 キッス・ライヴ』をレコーディングしたデトロイト・コボ・ホールでライヴ撮影を行い、TVやラジオで放送した後、ライヴビデオ『アニマライズ・ライヴ』として発売。セント・ジョンは撮影日の12月8日には事実上脱退しており、キューリックが代役を務めた。
  16. ↑ RIAAの記録は更新されていないが、『アサイラム』(1985年)も売り上げではプラチナムだとされる。
  17. ↑ 元ブラック・サバスやバッドランズのドラマーであり、1989年スタンレーのソロライヴ・ツアーメンバーでもあった。
  18. ↑ 大阪公演ではシモンズが風邪で喉を痛めてしまい、彼のボーカル曲のほぼ全てがセットリストから外されるというハプニングも勃発した。
  19. ↑ 未発表曲「アクロバット」のみ収録。
  20. ↑ 1989年頃から、裏方、共作者、ツアーマネージャーとしてキッスと共に行動し、アルバム『ホット・イン・ザ・シェイド』と『サイコ・サーカス』のレコーディングに参加した。
  21. ↑ どちらも『地獄への接吻』収録曲。
  22. ↑ 殿堂博物館によれば、このようなデモは初めてのことだった。
  23. ↑ シモンズによると1996年のに再加入したクリスとフレーリーも例外ではなく、5年間の従業員契約を結んだ。
  24. ↑ 後にレインボーに加入。
  25. ↑ 無名時代である。
  26. ↑ 火吹き、口から火糊を滴らせる、ワイヤーアクションによって宙を舞うなど。
  27. ↑ 同年3月11日の東日本大震災が起こる以前の中止発表であり、中止は震災の影響によるものではない。
  28. ↑ 「夢の浮世に咲いてみな」と「ロックンロール・オールナイト」でコラボレーション。

出典

  1. ↑ Weinstein, Deena (2015). Rock'n America: A Social and Cultural History. Toronto, Ontario: University of Toronto Press. p. 166. ISBN 978-1-442-60015-7
  2. ↑ Sheffield, Robert (January 1990). “Kiss: Hot in the Shade”. SPIN 5 (10): 78.
  3. ↑ Erlewine, Stephen Thomas. “Kiss Biography, Songs, & Albums”. AllMusic. RhythmOne. 2020年6月28日閲覧。
  4. ↑ “Kiss Bio”. Rolling Stone. 2017年11月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月17日閲覧。
  5. ↑ Cogan, Brian; Phillips, William (2009). Encyclopedia of Heavy Metal Music. Santa Barbara, California: ABC-CLIO. p. 132. ISBN 978-0-313-34801-3
  6. ↑ Tolinski, Brad (2011年6月7日). “Shock Rock! The Attack of Alice Cooper, Kiss, Slipknot and the 10,000-Foot Radioactive Teenager”. Guitar World. Future Publishing. 2023年3月17日閲覧。
  7. ↑ 城山隆『僕らの「ヤング・ミュージック・ショー」』情報センター出版局、2005年、43-56頁。 ISBN 978-4795843622。
  8. ↑ ポール・スタンレー、キッスが素顔をさらした理由を語る - BARKS
  9. ↑ “Former Kiss Guitarist Kulick Shot” (英語). www.billboard.com (2003年10月16日). 2026年8月26日閲覧。
  10. ↑ Top 10 Best Bands That Are NOT in the Rock and Roll Hall of Fame
  11. ↑ キッスの新作『Monster』が日本でも発売に - amass
  12. ↑ 結成40周年のKISS、7年ぶりの来日公演に1万5,000人熱狂 - BARKS
  13. ↑ “KISSとトム・モレロの「ロックの殿堂」スピーチ全和訳掲載! - UNIVERSAL MUSIC JAPAN”. キッス (2014年6月9日). 2025年10月17日閲覧。
  14. ↑ ももいろクローバーZ vs KISS、コラボシングルが実現 - BARKS
  15. ↑ KISS&ももいろクローバーZ、「東京ドームが楽しみ」 - BARKS
  16. ↑ “キッス、メイキャップなしでパフォーマンス”. BARKS (2017年2月21日). 2017年12月1日閲覧。、“キッス、今年2度目のメイクなしパフォーマンス”. BARKS (2017年11月13日). 2017年12月1日閲覧。
  17. ↑ “ポール・スタンレー、KISS引退の理由を語る”. ローリングストーン (2018年9月30日). 2019年12月16日閲覧。
  18. ↑ “KISSのジーン・シモンズに日本で直撃「最後の来日公演」は本当にラストなのか?”. ローリングストーン (2019年12月8日). 2019年12月16日閲覧。
  19. ↑ “キッスが最後の来日公演で見せつけた「ロックの本質」、歓喜と驚愕で満たされた東京ドームで4人の勇姿を目撃した!”. rockin'on.com (2019年12月13日). 2019年12月16日閲覧。
  20. ↑ “YOSHIKI、紅白出場が決定 今年はKISSとコラボ「ゴジラを倒した以上のインパクト…」”. ORICON NEWS (2019年12月15日). 2019年12月16日閲覧。
  21. ↑ “キッス、クルーズ延期で2021年7月以降もパフォーマンス続行”. Barks (2020年5月15日). 2021年3月20日閲覧。
  22. ↑ “キッスのジーン・シモンズ、バンドは「考えたこともなかった形で」今後も続いていくだろうと語る”. NME JAPAN (2022年8月15日). 2022年9月12日閲覧。
  23. ↑ “KISS、2022年来日公演ライヴ・レポート:終幕の先に組まれた特別なパーティー”. Udiscovermusic.jp (2022年12月1日). 2023年1月14日閲覧。
  24. ↑ “KISS、【エンド・オブ・ザ・ロード・ワールド・ツアー】の最終公演を発表「始めた場所で終わらせる」”. billboard-japan (2023年3月2日). 2023年4月21日閲覧。
  25. ↑ “KISS、今後はデジタル・アバターとして活動することを発表”. billboard-japan (2023年12月4日). 2023年12月9日閲覧。
  26. ↑ “伝説的ロックバンド「KISS」初代ギタリストのエース・フレーリーさん死去 74歳 転倒して脳出血”. スポーツ報知. 報知新聞社 (2025年10月17日). 2025年10月17日閲覧。
  27. ↑ Simmons, Gene (2001年). KISS and Make-up. Crown. ISBN 978-0609608555
  28. ↑ “KISS“マーチャンダイズとタイアップ”のはじまり”. BARKS (2012年11月4日). 2020年2月12日閲覧。
  29. ↑ “火を噴く実業家 KISSジーン・シモンズのビジネス塾”. 日経ビジネス (2016年6月16日). 2020年2月12日閲覧。
  30. ↑ “世界初、人の顔の商標登録でビッグマネーを生む”. 日経ビジネス (2016年6月16日). 2020年2月12日閲覧。
  31. ↑ ラブライブでμ'sがKISSメイク!!本家も反応して話題に

外部リンク


キッス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 22:25 UTC 版)

「ジーン・シモンズ (ミュージシャン)」の記事における「キッス」の解説

詳細は「キッス」を参照 1970年代を代表するロックバンド。個性的なメイク、過激なパフォーマンスで有名。子供まで影響された。 キッス - 活動初期の頃(1977年) 愛用の斧型カスタムモデル 火吹きをするシモンズ(2010年)

※この「キッス」の解説は、「ジーン・シモンズ (ミュージシャン)」の解説の一部です。
「キッス」を含む「ジーン・シモンズ (ミュージシャン)」の記事については、「ジーン・シモンズ (ミュージシャン)」の概要を参照ください。

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