活動初期 (1986-1993)
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「グレイヴ (バンド)」の記事における「活動初期 (1986-1993)」の解説
1986年に、オラ・リンドグレン (Lead G、Vo)、ヨルゲン・サンドストローム (Lead Vo、Rhythm G、B)、イェンス・ポールソン (Ds、Vo)の3名で結成。結成時の名前は、コープス (Corpse)であった。コープスは1枚のデモテープをリリースしたが、1988年にグレイヴ (Grave)にバンド名を変更する。バンド名変更後、活動を活発化させてゆくのだが、1989年にバンド名をPutrefactionに再変更。バンド名変更に際して、ベーシストのヨナス・エドワードソン (B)が加入。同年3月にデモテープをリリースするも、この体制は長続きせず、数か月でエドワードソンが脱退。バンド名を、グレイヴに再々変更している。この後もデモテープのリリースを積極的に行い、1991年にセンチュリー・メディア・レコードとの契約を得る。この契約までの間は、リンドグレンとサンドストロームのパートはかなり流動的であった。同年にヨナス・トルンダル (B)が加入。リンドグレン (Lead G、Lead Vo)、サンドストローム (Rhythm G)、トルンダル (B)、ポールソン (Ds)の布陣が固まる。 1991年に1stアルバム『Into the Grave』でデビュー。また、1stアルバムリリース前に2枚程度のスプリットアルバムに参加している。また、リリースに併せて、アメリカ及びヨーロッパツアーが敢行された。 1992年に2ndアルバム『You'll Never See...』をリリース。デビューアルバムと同じスタイルのデスメタルを演奏していた。しかしながら、このアルバムのレコーディング前にベーシストのトルンダルが脱退。脱退の原因は、ツアーに嫌気がさしたことだった。これを受けて、バンドは後任を探したが、結局、スリーピースでの活動となり、ギタリストのサンドストロームがベースを兼任することとなった。この他にも、3人の中でボーカルについてパートの変更があり、結果的に、リンドグレン (Lead G、Backing Vo)、サンドストローム (Lead Vo、Rhythm G、B)、ポールソン (Ds、Key)となっている。また、この頃にはストックホルムのデスメタルバンド、ディスメンバーと共に、モービッド・エンジェルがヘッドライナーを務めるヨーロッパツアーに参加している。
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活動初期(1994-1995年)
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「マッド・シーズン」の記事における「活動初期(1994-1995年)」の解説
1994年発表のパール・ジャムのアルバム「Vitalogy(邦題:バイタロジー (生命学))」の制作期間中に、当該バンドのギタリストであるマイク・マクレディはミネソタ州のHazeldenクリニックのドラッグ・アルコールのリハビリ施設に入り、そこでベーシストのジョン・ベイカー・ソーンダースと出会う。二人は1994年にワシントン州シアトルに戻り、ドラマーのバレット・マーティンを迎えてサイド・バンドを結成した。マクレディはパール・ジャムやテンプル・オブ・ザ・ドッグといったバンドでプレイし、マーティンはスキン・ヤードおよびスクリーミング・トゥリーズ、そしてソーンダースはLittle Pat Rushing、ヒューバート・サムリン、Sammy FenderおよびThe Lamont Cranston Bandのようなブルースの面々と共に活動していた。3人はすぐにリハーサルをおこない、後にマッド・シーズンのアルバムAboveに収録される「Wake Up(邦題:ウェイク・アップ(覚醒))」と「River of Deceit」の2曲を書いた。それからマクレディは友人でアリス・イン・チェインズのフロントマンであるレイン・ステイリーをラインアップに加え、これでバンドの主要メンバーが揃うこととなった。これは、マクレディがしらふ(中毒者でない)のミュージシャンとステイリーが活動を共にすることにより、彼自身もしらふになることを願ってのことであった。 シングル曲が完成していない(マーティンによると、曲の序盤のみ)うえにバンド名さえ決まっていないにも関わらず、マクレディは1994年10月12日にクロコダイル・カフェにて予告無しでショーをする予定を入れ、それは大きな成功へとつながった。アルバムに収められている「Artificial Red(邦題:アーティフィシャル・レッド(作為の赤) )」はこのショーをプレイする中で形を成した曲である。同会場で更に2回のコンサート(1994年11月6日と20日)が予定され、彼らは自らを「The Gacy Bunch」と名乗った。”Gacy”は悪名高いシカゴの連続殺人犯のJohn Wayne Gacy(ジョン・ウェイン・ゲイシー)から取り、”Bunch”は1970年代のシチュエーション・コメディである「The Brady Bunch(ゆかいなブレディー家)」から取ったものである。1995年1月8日、バンドはパール・ジャムのラジオの衛星放送であるSelf-Pollutionに出演し、「Lifeless Dead(邦題:ライフレス・デッド(生気なき死者))」および「I Don't Know Anything(邦題:アイ・ドント・ノウ・エニシング(意識不明))」を披露している。これはシアトルからの4時間半に渡る海賊版のラジオ番組(合法である)で、希望すればどのラジオ局でも放送することが可能であった。この2曲のパフォーマンスの模様は2013年3月に発売されたAboveのボックス・セットのDVDで観ることができる。
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活動初期(1978–1980)
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「プリンス (ミュージシャン)」の記事における「活動初期(1978–1980)」の解説
1978年4月、プリンスはたった一人でデビューアルバム 『For You』 を作り上げ、そのメジャーキャリアをスタートさせる。ビルボードチャートは163位に終わるものの、シングルカットされた「Soft and Wet」はR&Bチャートを賑わせた。 1979年、バックバンドを集めるものの、やはりアルバム作成はほぼひとりでやってのけ、セカンドアルバム『Prince(邦題:愛のペガサス)』を発表。キャッチーな曲として「Why You Wanna Treat Me So Bad」、「I Wanna Be Your Lover」がR&Bチャートでヒットとなった。なお「I Wanna Be Your Lover」は全米シングルチャートでも最高位11位にランクされる大ヒットとなり、一躍その名を世間に知らしめることとなる。日本で発売されたアルバムはこれが最初のものとなる。 1980年には『Dirty Mind』を発表。本来発表するつもりのないデモテープであったが、マネージャーの勧めで発表することになった。また、「Head」と「Sister」の詞が性的に露骨過ぎるという理由で放送禁止曲になることで話題を集めた。しかし、そのためにセールス的には前作を下回ってしまった。
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