活動凍結〜それぞれの道へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 14:47 UTC 版)
「筋肉少女帯」の記事における「活動凍結〜それぞれの道へ」の解説
1998年。当時の所属事務所の経営破綻、精神バランスを崩したこと、メンバーのモチベーション低下等が重なった結果、この頃より大槻はバンドとしての活動限界を感じるようになる。その一方で「メンバーのまとまりがなかった反面、ライブそのものはよかった」と、パフォーマンス的には円熟していた時期であるとも後年公言している。 バンドブーム衰退後も独自のスタンスを保ちメジャーシーンで活躍しつづけたが、同年8月の渋谷公会堂ライブを最後に太田が脱退。同時にバンドとしての活動休止が発表された。 9月、大槻は、内田および三柴らかつてのメンバーと期間限定で「80年代の筋肉少女帯」を結成。LIVEツアーも行う(後にインディーズよりビデオ発売)。 1999年5月には大槻がバンドのテコ入れを想定した「大槻と内田以外のメンバー一新による活動再開」を示唆し、後に橘高が脱退を表明。この事態が一部ファンに「大槻の独断による橘高外し」と受け取られ反発を招いた。大槻が公式サイト上で事態収拾を行うべく弁明の書き込みをするも逆に火に油を注ぐ形となり、大槻の人格攻撃に及ぶまでに至る。精神的に疲弊した大槻は翌6月に脱退を表明。内田雄一郎と本城聡章の2人のみとなった筋肉少女帯は事実上解散状態となる。しかし2人は筋肉少女帯の名を守りつづけることを決意。 7月、内田と本城は「解散」ではなくバンドとしての活動「凍結」を宣言した。 その後、大槻は文筆活動と併行して「特撮」を結成し、様々なコネクションを通じ対バン勝負を呼びかけて個人名義での活動も行う。橘高は脱退と前後する形で結成していた「X.Y.Z.→A」に専念。太田は相川七瀬らのサポートの傍らドラム教室を開催。内田と本城は他アーティストのサポートやプロデュース活動の他、「筋肉少女帯」(KING-SHOW)としてサントラ製作やライブアルバム監修、イベント主宰などを行っていった。
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