1984年-1989年:ジュアン・ウルタラー時代と危機的状況の継続
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「カタルーニャ共和主義左翼」の記事における「1984年-1989年:ジュアン・ウルタラー時代と危機的状況の継続」の解説
党は危機的状況にあり、その中で新しい党首にジュアン・ウルタラーが選ばれた。1986年3月12日のNATO残留の是非を問う住民投票(スペイン語版)ではERCはNATO脱退への支持を表明するも、残留支持票多数という結果に終わった。 1986年6月22日の総選挙では、80年の総選挙で獲得したただ一つの国会議席を82年に喪失していたERCにとって一段と厳しい結果となることが予想され、得票84,628、カタルーニャでの得票率2.67%という惨憺たる結果であった。この当時の党員数は1,676人で、党の危機的状況をやはり反映していた。 1987年の欧州議会選挙で、ERCはバスクとガリシアの民族主義政党エウスコ・アルカルタスナ(EA)とガリシア民族主義党(PNG)とともに諸民族のヨーロッパのための同盟(スペイン語版)を結成、この選挙協力はわずかながらもカタルーニャ内での支持を拡大する結果となった(112,107票、得票率3.7%)。選挙連合は1議席を欧州議会に獲得したが、候補者リスト第2位であったERCの議員誕生とはならなかった。 1988年の州議選(スペイン語版)では、ウルタラーをリスト筆頭に掲げたものの、得票数111,647で前回の国政選挙は上回ったものの、前回84年の州議選、前年の欧州議会選を下回り、党の危機的状況がなお継続していることを確認する結果に終わった。カタルーニャの有権者のうち4%の支持であったが、選挙の計算方法によって議席数は前回より1上回り(獲得議席6)、州議会第5党の勢力を維持することに成功した。 ジュアン・ウルタラーが率いたERCは1989年の総選挙においても、結果は86年の時とほぼ同様で、州内の得票率2.6%、得票数84,756で、84年の州議選で失った議席を補うものとはならなかった。この年の欧州議会選挙では再びEAとBNGと選挙連合諸民族のヨーロッパのため(スペイン語版)を結成したものの、危機的状況は深まるばかりであった(得票数78,408、州内得票率2.68%)。カタルーニャでのこの前回を下回った結果にもかかわらず、選挙連合は1議席を獲得し、1991年の選挙協定によってリスト1位に名のあったカルロス・ガライコエチェアとリスト2位のアリベルト・バレーラが交替して議席についた。
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