1984–1991年;ボランティア活動とプロポジションP
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「ブラウニー・メアリー」の記事における「1984–1991年;ボランティア活動とプロポジションP」の解説
1984年の初頭、ラスバンは毎週サンフランシスコ総合病院のエイズ病棟(86号棟)でボランティア活動をしていた。ドナルド・エイブラムズによると、「彼女は患者の車いすを押して放射線科に連れていったあとで検査サンプルを研究室まで運んできたものだった」。86号棟は、1986年にラスバンを表彰して「ボランティア・オブ・ザ・イヤー」賞を授与した。作家のキャロル・ポガッシュはこのときの病院でのボランティア活動について『どこまでもリアルに』(1992年)という本を書いている。 ニューヨークでペロンが「力を開放するエイズ連合」(アクトアップ、ACT UP)の集会で、大麻の使用がエイズ患者の症状緩和につながる可能性について語ったのは1990年代前半である。複数の研究により、ガンやエイズのような病気の治療を受けている患者が抱える吐き気や食欲減退に大麻が役立つことは実証されていた。しかし、アメリカでは1937年から大麻は違法であった。1970年の規制物質法でスケジュールIに分類された大麻は、薬としては「国内において治療のための医学的使用はいまのところ許容されない」どころか、医療大麻の所持は逮捕の対象であった。 アクトアップの集会にはじめて参加したときには懐疑的な反応を受けたペロンだったが、彼は集会に出るたびに持論を繰り返した。ペロンからアクトアップの話をされて、ラスバンも集会に参加して自らの手でエイズ患者に大麻入りのブラウニーを配った経験を語った。作家のピーター・ゴーマンによるとこの時は「以前にまして温かい反応だったが、依然として怪しまれてはいた」。 ラスバンはプロポジションPの実現に向けて取り組みを行った。カリフォルニア州政府およびカリフォルニア医学協会に対して、医療目的での大麻の利用を可能にし、医療大麻を処方する医師が罰を受けないように提言することをサンフランシスコ市の方針とすることに尽力した。1991年11月5日、プロポジションPはサンフランシスコ市の有権者から79%の支持を受けて可決された。
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