若手指導者の改革(1987–1995)
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「イタリア社会運動」の記事における「若手指導者の改革(1987–1995)」の解説
かくして35歳という若さで書記長に抜擢されたジャンフランコ・フィーニは、期待通り強力なリーダーシップを発揮してMSIの穏健化に向けた改革を推し進めた。自らもムッソリーニを「最も偉大な先人」と評するなど熱心なファシストではあったが、世相に合わせてファシスト路線を弱める方向に党を動かした。党穏健化の一環として党名もイタリア社会運動・国民右翼からイタリア社会運動・国民同盟に変更された。党の若返りと穏健化は民衆から前向きに受け取られ1994年の総選挙では全体得票で13%代を獲得した。しかし古参党員の反対もあり、やはり極右政党という旧来のイメージからの完全な脱却は難しかった。 フィーニはMSIの更なる改革を目指し、旧MSI議員を中核とした上で複数の政党を取り込んで新党を結成する事を模索し始めた。国内の名の知られた(しかし極右勢力とは距離を取っていた)イタリア国内の著名な保守系議員や、イタリア共和党・イタリア自由党など旧来の右派政党と会談を繰り返して新党結成への調整へ奔走した。 1995年、フィーニの入念な根回しの末、各勢力はMSIを中心とする新政党への合流に同意して新党・国民同盟(Alleanza Nazionale)が結成された。党首に就任したフィーニは「国民右翼」をスローガンに、新たな右翼政党が民族主義を堅持しつつも人種主義・排外主義とは明確に対立すると宣言、自らのイスラエル訪問の際には「ファシスト・イタリアは全くの悪」と発言した。これはアレッサンドラ・ムッソリーニらMSI時代に強硬派に属した議員の離反を招いたが、多くのMSI系議員と国民は中道右派と極右の間を補完する勢力としての改革を歓迎した。 以降国民同盟は右翼連合の一角を占めるグループとして政権参加なども行うようになったが、独立政党としてのMSIには終止符が打たれた事になる。
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