若手上院議員からベテラン上院議員へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 16:51 UTC 版)
「ジョー・バイデン」の記事における「若手上院議員からベテラン上院議員へ」の解説
バイデンは1度は息子たちの看病・世話を理由に議員職を辞退しようとしたが、当時民主党の上院院内総務であったマイケル・マンスフィールドから辞退を思い留まるよう説得を受け、議員に就任することを決意し、1973年1月5日に息子の病室から上院議員としての宣誓を行った。1973年1月から他の議員と同様に通常通り登院し、議員活動を開始した。この時バイデンは30歳で、30歳での上院議員はアメリカ史上5番目の若さだった。通常は議員になるとワシントンD.C.に居住する議員が多い中で、彼は息子たちの為に毎日片道1時間半かけてウィルミントン郊外の自宅とワシントンD.C.を電車通勤した。 1974年、バイデンはタイム誌の「200 Faces for the Future」の1人に選ばれるなど、議会の内外で活躍の場を広げ、知名度を高めていった。また私生活においても、1977年6月に2人目の妻のジル・トレイシー・ジェイコブスと結婚し、1女(アシュリー)をもうけた。1978年の選挙では、ジェームズ・H・バクスター・ジュニアを破り再選を、1984年の選挙ではジョン・M・バリスを破り3選を果たすなど、ベテラン議員への仲間入りを果たしていく。 1974年6月のインタビューでは自らの政治的立場について公民権・自由・高齢者の問題や医療についてはリベラルだが、中絶・軍の徴兵制については保守だと説明した。 1970年代半ば、デラウェア州白人有権者に反対者が多かった「差別撤廃に向けたバス通学」に反対した。民主党上院議員の中の主要な反対者の一人となった。南部州のような法律上の人種隔離(英語版)を是正するためにバスを利用することには賛成したが、デラウェア州のような近隣居住の人種パターンから生じる事実上の分離を是正するためのバスの使用には反対という立場だった。この件について2019年に民主党候補指名争いの討論会でカマラ・ハリスから追及された。 上院議員になって最初の10年は軍備管理に関わることが多かった。1979年に民主党のジミー・カーター大統領とソ連のレオニード・ブレジネフ首相の間で締結されたSALTIIがアメリカ議会の批准を得られなかった後、バイデンはソ連のアンドレイ・グロムイコ外相と会談し、アメリカの懸念と上院外交委員会の異議に対応する修正を行うよう求めた。 共和党の大統領ロナルド・レーガンが戦略防衛構想の為にSALTIを大雑把に解釈したいと主張した時、バイデンは条約を厳格に遵守することを求めた。またアパルトヘイトを進める南アフリカをレーガン政権が支援したことについて、上院の公聴会でシュルツ国務長官を非難して注目を集めた。 1981年1月、上院司法委員会(英語版)の少数党筆頭委員(英語版)に就任した。1984年の包括的防犯法(英語版)の可決に民主党側の議場指導者として協力。後にこの法律は厳しくなっていったため、2019年にバイデンはこれを可決させたことは大きな誤りだったと自省している。彼の支持者は彼がこの法律の最も最悪な部分を複数修正したことを賞賛しており、それが彼の立法上の最大の功績としている。この法律には連邦アサルトウェポン禁止法(英語版)や、彼が自分が携わった立法の中でも最も重要なものとする女性に対する暴力法(英語版)が含まれる。 1987年1月、上院司法委員長として初めて常任委員会の委員長に就任した。
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