前座時代
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前座生活は足掛け16年にも及ぶ。同一門下における前座修行期間としては戦後最長記録とされる。弟弟子の真打昇進パーティに前座の身分で裏方に回るという経験もあった。前座時代に3回破門を受けた。 1999年ごろ、談志が石原慎太郎都知事の会合に前座を連れて行こうとしたところ、連絡ミスで集まらず激怒、 破門(1週間で復帰)。 2000年に上納金の未納が発覚。月1万円を1年半も納めておらず、即座に破門。 未納分18万円の3倍の約50万円を納入後1カ月半で復帰。 2002年5月、談志より「二つ目への昇進意欲が感じられない」として他の前座(談修、志加吾、談号、談大、談吉)とまとめて破門される。2003年5月、談志により一門復帰試験と二つ目昇進試験が行なわれるが不合格(談修のみ復帰と二つ目昇進が認められる。これを機に志加吾と談号は立川流から脱退し、名古屋の雷門小福門下に移籍し、雷門獅篭と雷門幸福に改名)。 2004年1月、一門の新年会席上で再度復帰試験が行なわれるが、師匠について稽古した踊りは真打の兄弟子から「ラジオ体操」と評されるレベルであり、窮した談志は判断を真打達に委ねる。当初は厳しい意見が相次いだが、二つ目ではなくあくまでも前座としての復帰を認めるかどうかであるとの条件提示が談志からあり、談志の意を汲んだ立川志の輔の支援で復帰を許された。 前座という立場ではあったが、真打がトリや独演会で掛ける「紺屋高尾」などの大根多を勉強会の高座にかける(一般には前座が真打のネタを高座に掛けるのは禁じられている)。破門期間中は一度も勉強会などを開かなかった。本人は、勉強会の日と復帰試験の日が重なってはいけないからとの配慮からであったと述べている。
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前座時代
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「桂三木助 (4代目)」の記事における「前座時代」の解説
新入り落語家である前座は、師匠宅における労働(家事・掃除など)の義務があり、当然それは早朝から深夜に及ぶものである。しかし、三木助はようやく昼過ぎに師匠宅に車で乗り付けるという重役出勤ぶりで、それもただ「出勤」しただけで、労働らしきものは全く行わなかった。師匠小さんも特に注意せず、野放しにさせた。他の弟子たちは上下問わず「あの人(=三木助)は宇宙人みたいな人だから…」と呆れたまま放置するのであった。 実質的な前座作業をしていないということは功罪両面があり、後のタレントとしての成功につながった。これは苦役を体験することからくる「暗さ」や「セコさ」とは縁がなく、御曹子ならではの屈託のないキャラクターがそのまま活かされたことにある。 反面、小さん一門ひいては落語家社会からの反感を買うこととなり、修行体験で古典落語を身体に沁み込ませなかったこと、それでも古典落語を無理にやろうとしていたので、専門家やファンからの評価が高くなかったこと、修行全般から逃げてきたことによって精神面が鍛えられなかったという致命的なデメリットもあった。 なお、小さんへ弟子入りしたことで、師弟が完全に同姓同名となり、郵便物などの取り違えが起こるトラブルが多発した。さらには師匠小さんの代理で区役所に印鑑証明をとろうと足を運んだところ、職員から「本人も代理人も小林盛夫では話にならない」と言われ、もめてしまったと言う逸話もある。
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前座時代
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学生運動が収束に向かったこともあって、自身も去就を模索する必要に迫られた。芸能に興味はあったが、アングラ演劇には馴染めず、「理工系なので文学的なものはわからない、しかし演芸なら自分にも理解できるだろう」という理由で、いつしか芸人を志望するようになった。ただ、子供の勉学に厳しく大学にまで入らせて芸人の道を志した息子に、母は怒り嘆き、子供の頃から厳しい勉強を強いられて窮屈な思いをしていた武は、これに猛反発。北野家においても、近所の体裁を考えて「芸人を目指した北野家の武」という存在は無かった事になっていた。 1972年夏、東京都台東区浅草にあるストリップ劇場の浅草フランス座で、芸人見習い志願としてエレベーターボーイを始める。当時、たけしと思しき人物を見た井上ひさしは「不機嫌そうな青年」と、その印象を述べている。やがて、同劇場の経営者兼座長であった深見千三郎に師事し、前座芸人・北千太としてコント(軽演劇)を学ぶ。初舞台は、痴漢のコント。幕間コントに出演して腕を磨き、芸人としてタップダンスの修業にも励む。座員の多くが深見を近付き難い存在として見ていたが、たけしは物怖じしなかったため、深見から気に入られた。ただ、深見は一般の場所でも唐突にギャグ(ボケ)を連発、間髪入れずに師を即興で罵倒という技術を仕込まれ、この特異な芸の仕込みに北野は深見に四六時中振り回される形となり芸を習得、模索する事になる。この指導もあり、舞台ではアドリブを駆使し、言葉の拾い方に独特の斬新さがあったため一目置かれ、後に誕生する漫才コンビ・ツービート独自の芸風の基礎として取り入れられ漫才ブームで駆使し一気に開花する。当時は、フランス座の四畳間の屋根裏部屋で寝泊りをしていた。 長じて、フランス座の新人芸人とコントコンビを組むことを考える。舞台(コント)が活動の主軸を旨としていた深見は、漫才での活動を望んだ弟子の北野を即刻破門(後に解除)、漫才を主軸に活動の場を放送媒体に移す。
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