前座芝居と、映画との出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/05 15:15 UTC 版)
「トト (俳優)」の記事における「前座芝居と、映画との出会い」の解説
同じく1930年、トーキー映画の出現が確立した頃、ステファノ・ピッタルーガ、映画会社チネス社とともにイタリア最初のトーキー映画『it:La canzone dell'amore (愛の歌)』を製作したプロデューサーは、映画の新しい題材を探していた。その頃すでにトップスターとして活躍していたトトをピッタルーガが逃すはずはなく、『Il ladro disgraziato (不運な泥棒)』のために彼と面談した。とはいえピッタルーガはトトにバスター・キートンのものまねをやらせようとしたがトトはそれを好まず、結局この映画は日の目を見る事はなかった。 映画界入りを待つ間、トトはイタリアの様々な劇場で前座芝居を演じる自前の劇団を組んで座長となり、1940年までその活動は続いた。トトはフィレンツェへのツアーの際、16歳の少女ディアナ・ロッリアーニと知り合った。トトはその若すぎる歳の差が気に入らなかったにもかかわらず、二人の間には娘が生まれ、カスタニョーラとの一件から、リリアーナと名付けた。 1930年代は彼にとって大きな成功の時期であり、莫大な収入を得たというわけではなかったが、片腕であるグリエルモ・イングレーゼ(のちにはエドゥアルド・パッサレッリ)とともに、イタリア全国の劇場でヒットを飛ばした。この時期トトは台本に書かれていないアドリブの演技を磨いていった。それはセリフだけでなく体全体を張って大げさなデフォルメを伴う演技にもつながっていき、『ドン・キホーテ』のような古典的レパートリーを演じている際にも、また相方を務める女優に対しても、様々なアドリブで応じ、基本的に人間の求める食欲や性欲、メンタルヘルスといったモデルを作り上げていった。もちろんそのようなトトの演技は、決して卑俗なものになる事はなかった。トトはその演技を磨いていく過程で、貧乏だった若い頃の経験をもとに、「貧しさこそ喜劇の原点である」そして「人生の中で戦いを起こさなければ本物の喜劇役者にはなれない」と思うようになった。このようにして、トトは本当にメジャーな喜劇役者としての地位を獲得していったのである。 1933年、彼は養父の財産を相続し、貴族の地位を得た。翌1934年にはトトからの嫉妬に病んでいた伴侶のディアナ・ロッリアーニと、娘のリリアーナとともにローマで家を構えた。1935年4月、二人は正式に結婚した。 その頃、幾人かの重要な人物がトトを映画に誘おうとした。ウンベルト・バルバーロ、チェザーレ・ザバッティーニ、『百万あげよう Darò un milione』のマリオ・カメリーニ、それからルイジ・アルミランテである。これらの計画は実現しなかったが、ついに1937年、トトはグスターヴォ・ロンバルドのプロデュース、ティタヌス社製作の『it:Fermo con le mani!(手出しするな!)』で映画にデビューし、ローマのレストランでの昼食のあとにその契約を交わした。監督はジェロ・ザンブートが務めた。とは言え映画はさほど成功しなかった。イタリアの観衆の目には、この映画はチャップリンの二番煎じとしか映らなかったのである。 この時期、トトは大きな事故に遭う。親友マリオ・カステラーニとの事故がもとで、眼鏡が刺さって彼は左目の視力を失った。この事故がもとで、彼の前座劇での輝かしい栄光は終わってしまった。さらに結婚生活にも危機が訪れ、若い妻へ嫉妬を感じたトトは彼女を楽屋で待機させるようになり、それに嫌気がさしたディアナと別居して独身に戻ることに了承した。当時のイタリアの法律では離婚は認められなかったため、彼らはハンガリーで離婚を宣言した。とはいえその宣言はのちにイタリアで取り消され、再び一緒になった彼らは、娘と彼の両親とともにローマで同居した。 最初の映画の不成功のあと、トトはあまり乗り気ではなかったにもかかわらず、2作目の映画に出演した。1939年、カルロ・ルドヴィゴ・ブラガリア監督の『it:Animali pazzi(気違いペット)』である。予算の限られていたこの映画で、トトは一人二役を演じた。これもやはり映画としてのオリジナリティに欠けるもので、不成功に終わった。 1939年には妻や片腕らとともに『5千万、気違い染みてる! 50 milioni... c'è da impazzire!』という演目を下げてエチオピア公演に遠征した。この演目は片腕のグリエルモ・イングレーゼとともに書き下ろし、前年イタリアで演じて成功していた。また3番目の映画でチェーザレ・ザヴァッティーニ監督、リボリオ・カピターニ製作の『it:San Giovanni decollato (着飾った聖ヨハネ)』に出演した。しかしザヴァッティーニは仕事を気に入らず、監督はアムレット・パレルミに交替した。この映画は良い批評を受け、「チネマ」誌、「レスプレッソ」誌でそれぞれ、トトは台詞回しや演技が表現的であると評価された。ザヴァッティーニはその後『it:Totò il buono (トト、良い男)』という脚本を書いた。これはそのままでは映画化されなかったが、後年ヴィットリオ・デ・シーカ監督の『ミラノの奇蹟』として1951年に映画化され(主人公の役名はトト(アントニオの愛称)だが別人が演じた)、イタリアのネオリアリズム映画の代表作となった。同じくアムレット・パレルミ監督の4作目の映画、1940年の『it:L'allegro fantasma (幻想的な陽気)』に出演し、これはトトが劇場に戻る前の期間としては最後のものとなった。
※この「前座芝居と、映画との出会い」の解説は、「トト (俳優)」の解説の一部です。
「前座芝居と、映画との出会い」を含む「トト (俳優)」の記事については、「トト (俳優)」の概要を参照ください。
- 前座芝居と、映画との出会いのページへのリンク