映画界入り
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1920年、溝口は向島で琵琶を教えていた友人の所へ遊びに行くうちに、琵琶を習いに来ていた日活向島撮影所の俳優の富岡正と親しくなり、富岡の手引きで向島撮影所に出入りするようになった。そのうち新進監督だった若山治と知り合い、若山の撮影台本の清書などを手伝っていたが、同年5月に若山に勧められるまま向島撮影所に入社した。当時、映画の仕事は社会的に低く見られていたため、父や姉は入社にあまり賛成しなかったが、溝口がどうしても入りたいと言ったため、ようやく許可が下りた。溝口ははじめ俳優を志望していたが、最古参監督の小口忠の監督助手に入れられ、俳優の手配をしたり、毎日スタッフの弁当の伝票を書いたりするなどの雑用もこなした。1922年には田中栄三監督の『京屋襟店』で助監督につき、田中にその能力を認められた。しかし、同年11月の『京屋襟店』完成試写後に13人の所属俳優と阪田重則などの監督が連袂退社するという騒動が起き、その前後には小口も日活を退社したため、スタッフが手薄になった。溝口はこうした状況の中で、田中の推挙により監督昇進を果たした。 1923年2月、溝口は若山の脚本による『愛に甦る日』で監督デビューした。同月には監督2作目の『故郷』を発表したが、検閲でズタズタにカットされたため、やむなく琵琶劇をつなぎに入れて公開した。溝口は5月公開の『敗残の唄は悲し』で初めて注目され、7月公開の『霧の港』で新進監督としての評価を得た。同年9月1日には関東大震災が発生し、それにより溝口の自宅は焼失し、父や甥とともに向島撮影所に避難した。撮影所は軽い被害を受けただけですみ、溝口は早速会社の命令でカメラマンの気賀靖吾とともに震災後の市内の実況フィルムを撮影し、次に震災を題材にした劇映画『廃墟の中』を監督した。しかし、向島撮影所は閉鎖と決まり、11月に溝口を含む所属者たちは京都の大将軍撮影所に移った。大将軍時代は1ヶ月に1本のペースで幅広いジャンルの作品を撮影したが、そのほとんどが不評で、スランプの時期と言われた。 この頃の溝口は、毎夜のごとく祇園や先斗町、木屋町通などで飲み歩いていたが、1925年2月頃に木屋町のやとなだった一条百合子と親しくなり、やがて同棲生活を始めた。しかし、百合子とは痴話喧嘩が絶えず、同年5月末に『赫い夕陽に照らされて』のロケ撮影から帰宅後、百合子に背中を剃刀で斬りつけられた。傷は大したことがなくて命に別状はなかったが、この刀傷沙汰はスキャンダルとして新聞の三面記事に書き立てられたため、『赫い夕陽に照らされて』の監督を降ろされ、さらに会社から3ヶ月の謹慎処分を受けた。溝口は起訴を免れて東京へ行った百合子を追い、ヨリを戻したが、結局別れて京都に戻り、9月に日活に復社した。翌1926年公開の『紙人形春の囁き』と『狂恋の女師匠』はスランプを脱した作品として高く評価され、前者はこの年に始まったキネマ旬報の日本映画ベスト・テンで7位に選ばれた。 1926年末、溝口は俳優の中野英治に連れられて行った大阪のダンスホールで、ダンサーの嵯峨千恵子(本名は田島かね、通称千恵子)と知り合い、次第に親密な関係になった。しかし、千恵子にはオペラ歌手の夫がおり、彼を世話していたヤクザの親分から呼び出しがかかった。青ざめた溝口は、撮影所庶務課員で笹井末三郎とも親しかった永田雅一の力を借りて千恵子の身辺を清算し、翌1927年8月に永田の媒酌で結婚した。この年から1928年にかけて溝口の作品数は減り、体調を崩すこともしばしばあった。1928年5月には撮影所が大将軍から太秦に移転し、溝口はその新撮影所の脚本部長に就任し、しばらく監督業から離れた。9月には昭和天皇の御大典記念映画を監督する話が出たが、撮影所の都合で延期となり、次に溝口初の時代劇を大河内傅次郎主演で撮る話も出たが、これも実現しなかった。1929年1月公開の泉鏡花原作『日本橋』でようやく監督に戻り、同年は主題歌と共にヒットした『東京行進曲』や、当時隆盛した左翼思想を反映した内容の『都会交響楽』で成功を収めた。
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映画界入り
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1938年に渡米してニューヨーク入りし、後にロサンジェルスに移った。『ガス燈』や『失われた心』、『忘れじの面影』といった往年の洋画のほか、『ラビット狂騒曲』や、『トムとジェリー』の「ワルツの王様」といった古典的なアニメーションでピアノの吹き替え演奏を担当している。
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映画界入り
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1923年1月、一家は小津と女学校に通う妹の登貴を残して上京し、東京市深川区和倉町に引っ越した。3月に小津は登貴が女学校を卒業したのを機に、代用教員を辞めて2人で上京し、和倉町の家に合流して家族全員が顔を揃えた。小津は映画会社への就職を希望したが、映画批評家の佐藤忠男曰く「当時の映画は若者を堕落させる娯楽と考えられ、職業としては軽蔑されていた」ため父は反対した。しかし、母の異母弟の中條幸吉が松竹に土地を貸していたことから、その伝手で8月に松竹キネマ蒲田撮影所に入社した。小津は監督志望だったが、演出部に空きがなかったため、撮影部助手となった。入社直後の9月1日、小津は撮影所で関東大震災に遭遇した。和倉町の家は焼失したが、家族は全員無事だった。震災後に本家が湯浅屋を廃業したことで、父は亀住町の店跡を店舗兼住宅に新築し、新たに「小津地所部」の看板を出して、本家が所有する土地や貸家の管理を引き受けた。松竹本社と蒲田撮影所も震災で被害を受け、スタッフの多くは京都の下加茂撮影所に移転した。蒲田には島津保次郎監督組が居残り、小津も居残り組として碧川道夫の撮影助手を務めた。 1924年3月に蒲田撮影所が再開すると、小津は酒井宏の撮影助手として牛原虚彦監督組についた。小津は重いカメラを担ぐ仕事にはげみ、ロケーション中に暇があると牛原に矢継ぎ早に質問をした。12月、小津は東京青山の近衛歩兵第4連隊に一年志願兵として入営し、翌1925年11月に伍長で除隊した。再び撮影助手として働いた小津は、演出部に入れてもらえるよう兄弟子の斎藤寅次郎に頼み込み、1926年に時代劇班の大久保忠素監督のサード助監督となった。この頃に小津はチーフ助監督の斎藤、セカンド助監督の佐々木啓祐、生涯の親友となる清水宏、後に小津作品の編集担当となる撮影部の浜村義康の5人で、撮影所近くの家を借りて共同生活をした。小津は大久保のもとで脚本直しと絵コンテ書きを担当したが、大久保は助監督の意見に耳を傾けてくれたため、彼にたくさんのアイデアを提供することができた。また、大久保はよく撮影現場に来ないことがあり、その時は助監督が代わりに務めたため、小津にとっては大変な勉強になった。小津は後に、大久保のもとについたことが幸運だったと回想している。 1927年のある日、撮影を終えて腹をすかした小津は、満員の社員食堂でカレーライスを注文したが、給仕が順番を飛ばして後から来た牛原虚彦のところにカレーを運んだため、これに激昂して給仕に殴りかかろうとした。この騒動は撮影所内に知れ渡り、小津は撮影所長の城戸四郎に呼び出されたが、それが契機で脚本を提出するよう命じられた。城戸は「監督になるには脚本が書けなければならない」と主張していたため、これは事実上の監督昇進の試験だった。小津は早速自作の時代劇『瓦版かちかち山』の脚本を提出し、作品は城戸に気に入られたが、内容が渋いため保留となった。8月、小津は「監督ヲ命ズ 但シ時代劇部」の辞令により監督昇進を果たし、初監督作品の時代劇『懺悔の刃』の撮影を始めた。ところが撮影途中に予備役の演習召集を受けたため、撮り残したファーストシーンの撮影を斎藤に託し、9月25日に三重県津市の歩兵第33連隊第7中隊に入隊した。10月に『懺悔の刃』が公開され、除隊した小津も映画館で鑑賞したが、後に「自分の作品のような気がしなかった」と述べている。
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映画界入り
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1988年に西江大学を卒業した後、映画監督のイ・ジャンホが設立したパン映画社の演出部の一員となる。演出部時代にクァク・ジェヨンに出会い、クァクの映画監督デビュー作『雨降る日の色彩画』(1989年)の助監督を引き受ける。しかし、独立映画のように撮影された『雨が降る日の水彩画』で現場の難しさを感じ、助監督を辞めて映画人の道を諦めることも考えたが、当時構想中だった脚本だけ完成させることにする。脚本完成後、再び映画に対する情熱を感じたことで映画の道に進むことを決心した。
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映画界入り
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その後、1941年のブロードウェイ・ミュージカル『レイディ・イン・ザ・ダーク(Lady in the Dark)』(音楽:クルト・ヴァイル、詞:アイラ・ガーシュウィン)に出演し、さらに同作品中のわずか39秒で50人のロシア人作曲家を早口で暗唱する『チャイコフスキー(とその他のロシア人)(Tchaikovsky and Other Russians)』という曲で大絶賛を浴びた。 さらに、彼の才能に注目した映画製作者サミュエル・ゴールドウィンの誘いにより映画界入りを果たし、1944年に『ダニー・ケイの新兵さん』で映画デビューを飾る。 以降、『ダニー・ケイの天国と地獄』や『虹を掴む男』、『ホワイト・クリスマス』、『五つの銅貨』等、数々の映画に出演。独特の早口で歌う様やコミカルな演技で人気を博した。
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映画界入り
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1927年、商業学校5年生の山中は映画監督になることを決意し、マキノ・プロダクション(マキノプロ)の若手スターで新進監督だった先輩のマキノ正博に手紙を出し、同社への入社を希望した。さらにマキノの自宅を訪れ、正博の父親でマキノプロを主宰する牧野省三と面談し、入社を認められた。同年3月、山中は第一商業学校を卒業したが、同校では卒業論文を書くという大学並みの制度があり、山中は「商品としての活動写真」という論文を提出した。そして4月にマキノプロの御室撮影所に監督志望で入社し、台本部へ配属された。台本部は、各地の支社や常設館に送る新作のレポートを作成する部門で、そこには全作品のシナリオが集まったため、脚本の勉強をするにはうってつけの場所だった。山中も台本部の作業に没頭しながら、たくさんのシナリオに目を通し、脚本作りの勉強をした。マキノプロでは従業員がペンネームを名乗ることが多く、山中もそれに倣って「社堂沙汰夫(しゃどうさだお)」というペンネームを名乗った。 入社から2ヶ月後、山中は助監督部へ配属され、マキノプロの代表監督である井上金太郎監督のお盆用の特作映画『いろは仮名四谷怪談』(1927年)で助監督を務めた。当時の助監督は、監督の補佐だけでなく、ロケ先の会計、俳優の出迎え、野次馬の整理などの雑事も任され、撮影がうまく進行するために走り回らなければならなかった。しかし、山中はのろまで、いつも何もしないで監督の後ろに立っているだけで、隙あらばカメラのファインダーを覗こうとしてカメラマンに追っ払われた。いつしか山中は「ダメな助監督」として撮影所内に知れ渡り、どの監督からも声をかけられなくなってしまった。それでも撮影所は忙しく、会社としてもこのまま山中を遊ばせるわけにはいかなかったため、山中は新人監督の小石栄一などの組についたりして助監督1年目を過ごした。 1928年、なかなか監督から声がかからなかった山中は、それを見かねたマキノ正博の組につくことになり、『蹴合鶏』『浪人街 第一話 美しき獲物』などでサード助監督を務めた。しかし、何をやらせてものろまで役に立たなかった山中は、助監督として落第だったため、ほかの助監督たちにどんどん先を越されてしまい、監督昇進のチャンスを見過ごしていた。それにもかかわらず、山中は要領よく動こうとしたり、会社に監督昇進を頼み込んだりはしなかった。この頃の山中は先輩助監督の吉田信三と仲良くなり、暇さえあればお互いの下宿に寄り合ってシナリオ修業に励んだ。この時に2人で現代劇のシナリオ『街角行進曲』を共同執筆し、マキノ正博に賞賛されたが、諸事情で映画化には至らなかった。
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映画界入り
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1958年(昭和33年)、日活第4期ニューフェイスとして日活へ入社。石原裕次郎主演の『紅の翼』に本名の「赤塚親弘」名義で群衆の一人としてエキストラ出演し、これが映画デビュー作となった。その西洋的風貌や退廃的な雰囲気がこれまでの日本人俳優にはない個性として評判を呼び、「トニー」の愛称で主人公の弟分や準主役級として出演するようになった。この愛称は、1950年代から1960年代にかけて人気のあったハリウッドスタートニー・カーティスにどことなく風貌が似ていたことが由来である。 1959年(昭和34年)『拳銃0号』で演じた不良少年役が評判になった後、鈴木清順監督の『素っ裸の年令』で初主演を果たす。この映画で赤木の人気に手応えを感じた日活は、『清水の暴れん坊』と『鉄火場の風』で石原と共演させるとこれらの映画が評判となった。日活はさらに1960年1月から赤木、石原、小林に和田浩治を加えた4人で「ダイヤモンドライン」を結成させ、それぞれ毎月1本ずつのペースで彼らの主演映画を製作することにした。 その後、『拳銃無頼帖』シリーズなど20本以上の無国籍アクション映画に主演し、日活のアクション俳優として「タフガイ=石原裕次郎」「マイトガイ=小林旭」に続く「第三の男」と呼ばれた。その風貌から「和製ジェームズ・ディーン」とも云われた。また、『霧笛が俺を呼んでいる』(1960年)では少年時代からの憧れだったという船乗りを演じ、「マドロス姿が最もさまになる日活俳優」とも評価された。 歌手としても、日本グラモフォン(ポリドール)から『霧笛が俺を呼んでいる』をはじめとする数々のヒット曲をリリースした(生前レコーディングしたのは、全部で25曲)。その声は低音で哀愁があり、ブルースが似合う声と評された。
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