映画界入りとは? わかりやすく解説

映画界入り

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 03:42 UTC 版)

溝口健二」の記事における「映画界入り」の解説

1920年溝口向島琵琶教えていた友人所へ遊びに行くうちに、琵琶習い来ていた日活向島撮影所俳優富岡正と親しくなり、富岡の手引きで向島撮影所出入りするようになったそのうち新進監督だった若山治知り合い若山撮影台本清書などを手伝っていたが、同年5月若山勧められるまま向島撮影所入社した当時映画の仕事社会的に低く見られていたため、父や姉は入社にあまり賛成しなかったが、溝口がどうしても入りたいと言ったため、ようやく許可下りた溝口ははじめ俳優志望していたが、最古参監督小口忠監督助手入れられ俳優の手配をしたり、毎日スタッフ弁当伝票書いたりするなどの雑用こなした1922年には田中栄三監督の『京屋襟店』で助監督につき、田中にその能力認められた。しかし、同年11月の『京屋襟店完成試写後に13人の所属俳優阪田重則などの監督連袂退社するという騒動起き、その前後には小口日活退社したため、スタッフ手薄になった溝口はこうした状況の中で、田中推挙により監督昇進果たした1923年2月溝口若山脚本による『愛に甦る日』で監督デビューした。同月には監督2作目の『故郷』を発表したが、検閲ズタズタカットされたため、やむなく琵琶劇をつなぎに入れて公開した溝口5月公開の『敗残の唄は悲し』で初め注目され7月公開の『の港』で新進監督としての評価得た同年9月1日には関東大震災発生し、それにより溝口自宅焼失し、父や甥とともに向島撮影所避難した撮影所は軽い被害受けただけですみ、溝口は早速会社命令カメラマン気賀靖吾とともに震災後市内実況フィルム撮影し次に震災題材にした劇映画廃墟の中』を監督した。しかし、向島撮影所閉鎖決まり11月溝口を含む所属者たちは京都大将軍撮影所移った大将軍時代1ヶ月に1本のペース幅広いジャンル作品撮影したが、そのほとんどが不評で、スランプ時期と言われた。 この頃溝口は、毎夜のごとく祇園先斗町木屋町通などで飲み歩いていたが、1925年2月頃に木屋町のやとなだった一条百合子親しくなり、やがて同棲生活を始めた。しかし、百合子とは痴話喧嘩絶えず、同年5月末に『赫い夕陽照らされて』のロケ撮影から帰宅後、百合子背中剃刀斬りつけられた。傷は大したことがなくて命に別状はなかったが、この刀傷沙汰スキャンダルとして新聞三面記事書き立てられたため、『赫い夕陽照らされて』の監督降ろされ、さらに会社から3ヶ月謹慎処分受けた溝口起訴免れて東京へ行った百合子追いヨリ戻したが、結局別れて京都戻り9月日活復社した。翌1926年公開の『紙人形春の囁き』と『狂恋の女師匠』はスランプ脱した作品として高く評価され前者この年始まったキネマ旬報日本映画ベスト・テンで7位に選ばれた。 1926年末、溝口俳優中野英治に連れられて行った大阪ダンスホールで、ダンサー嵯峨千恵子本名田島かね、通称千恵子)と知り合い次第親密な関係になった。しかし、千恵子にはオペラ歌手の夫がおり、彼を世話していたヤクザ親分から呼び出しかかった青ざめた溝口は、撮影所庶務課員で笹井末三郎とも親しかった永田雅一力を借りて千恵子身辺清算し、翌1927年8月永田媒酌結婚したこの年から1928年にかけて溝口作品数減り体調を崩すこともしばしばあった。1928年5月には撮影所大将軍から太秦移転し溝口はその新撮影所脚本部長就任し、しばらく監督業から離れた9月には昭和天皇御大典記念映画監督する話が出たが、撮影所都合延期となり、次に溝口初の時代劇大河内傅次郎主演で撮る話も出たが、これも実現しなかった。1929年1月公開泉鏡花原作日本橋』でようやく監督戻り同年主題歌と共にヒットした東京行進曲』や、当時隆盛した左翼思想反映した内容の『都会交響楽』で成功収めた

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映画界入り

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ヤコブ・ギンペル」の記事における「映画界入り」の解説

1938年渡米してニューヨーク入りし、後にロサンジェルス移った『ガス燈』や『失われた心』、『忘れじの面影』といった往年の洋画のほか、『ラビット狂騒曲』や、『トムとジェリー』の「ワルツの王様」といった古典的なアニメーションピアノ吹き替え演奏担当している。

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映画界入り

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小津安二郎」の記事における「映画界入り」の解説

1923年1月一家小津女学校に通う妹の登貴を残して上京し東京市深川区和倉町引っ越した3月小津は登貴が女学校卒業したのを機に代用教員辞めて2人上京し和倉町の家に合流して家族全員が顔を揃えた小津映画会社への就職希望したが、映画批評家佐藤忠男曰く当時の映画若者堕落させる娯楽考えられ職業として軽蔑されていた」ため父は反対した。しかし、母の異母弟中條幸吉松竹土地貸していたことから、その伝手で8月松竹キネマ蒲田撮影所入社した小津監督志望だったが、演出部空きがなかったため、撮影部助手となった入社直後9月1日小津撮影所関東大震災遭遇した和倉町の家は焼失したが、家族全員無事だった震災後本家湯浅屋を廃業したことで、父は亀住町の店跡を店舗住宅新築し新たに小津地所部」の看板出して本家所有する土地貸家管理引き受けた松竹本社蒲田撮影所震災被害を受け、スタッフ多く京都下加茂撮影所移転した蒲田には島津保次郎監督組が居残り小津居残り組として碧川道夫撮影助手務めた1924年3月蒲田撮影所再開すると、小津酒井宏の撮影助手として牛原虚彦監督についた小津は重いカメラを担ぐ仕事にはげみ、ロケーション中に暇があると牛原に矢継ぎ早に質問をした。12月小津東京青山近衛歩兵第4連隊一年志願兵として入営し、翌1925年11月伍長除隊した。再び撮影助手として働いた小津は、演出部入れてもらえるよう兄弟子斎藤寅次郎頼み込み1926年時代劇班の大久保忠素監督サード助監督となったこの頃小津チーフ助監督斎藤セカンド助監督佐々木啓祐生涯親友となる清水宏、後に小津作品編集担当となる撮影部浜村義康の5人で、撮影所近くの家を借りて共同生活をした。小津大久保のもとで脚本直し絵コンテ書き担当したが、大久保助監督意見耳を傾けてくれたため、彼にたくさんのアイデア提供することができた。また、大久保はよく撮影現場に来ないことがあり、その時助監督代わりに務めたため、小津にとっては大変な勉強になった小津は後に、大久保のもとについたことが幸運だった回想している。 1927年ある日撮影終えて腹をすかした小津は、満員社員食堂カレーライス注文したが、給仕順番飛ばして後から来た牛原虚彦ところにカレー運んだため、これに激昂して給仕殴りかかろうとした。この騒動撮影所内に知れ渡り小津撮影所長の城戸四郎呼び出されたが、それが契機脚本提出するよう命じられた。城戸は「監督なるには脚本書けなければならない」と主張していたため、これは事実上監督昇進試験だった。小津は早速自作時代劇瓦版かちかち山』の脚本提出し作品城戸気に入られたが、内容が渋いため保留となった8月小津は「監督ヲ命ズ 但シ時代劇部」の辞令により監督昇進果たし、初監督作品時代劇懺悔の刃』の撮影始めた。ところが撮影途中予備役演習召集受けたため、撮り残したファーストシーンの撮影斎藤託し9月25日三重県津市歩兵第33連隊第7中隊入隊した10月に『懺悔の刃』が公開され除隊した小津映画館鑑賞したが、後に「自分作品のような気がしなかった」と述べている。

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映画界入り

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パク・チャヌク」の記事における「映画界入り」の解説

1988年西江大学卒業した後、映画監督のイ・ジャンホが設立したパン映画社の演出部一員となる。演出部時代クァク・ジェヨン出会い、クァクの映画監督デビュー作『雨降る日の色彩画』(1989年)の助監督引き受ける。しかし、独立映画のように撮影された『雨が降る日の水彩画』で現場難しさ感じ助監督辞めて映画人の道を諦めることも考えたが、当時構想中だった脚本だけ完成させることにする。脚本完成後、再び映画対す情熱感じたことで映画の道に進むことを決心した

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映画界入り

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 00:11 UTC 版)

ダニー・ケイ」の記事における「映画界入り」の解説

その後1941年ブロードウェイ・ミュージカル『レイディ・イン・ザ・ダーク(Lady in the Dark)』(音楽クルト・ヴァイル、詞:アイラ・ガーシュウィン)に出演し、さらに同作品中のわずか39秒で50人のロシア人作曲家早口暗唱するチャイコフスキー(とその他のロシア人)(Tchaikovsky and Other Russians)』という曲で大絶賛浴びた。 さらに、彼の才能注目した映画製作者サミュエル・ゴールドウィン誘いにより映画界入りを果たし1944年に『ダニー・ケイ新兵さん』で映画デビューを飾る。 以降、『ダニー・ケイ天国と地獄』や『虹を掴む男』、『ホワイト・クリスマス』、『五つの銅貨』等、数々映画出演。独特の早口で歌う様やコミカルな演技人気博した

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山中貞雄」の記事における「映画界入り」の解説

1927年商業学校5年生山中映画監督になることを決意しマキノ・プロダクションマキノプロ)の若手スター新進監督だった先輩マキノ正博手紙出し同社への入社希望した。さらにマキノ自宅訪れ、正博の父親マキノプロ主宰する牧野省三面談し入社認められた。同年3月山中第一商業学校卒業したが、同校では卒業論文を書くという大学並み制度があり、山中は「商品としての活動写真」という論文提出した。そして4月マキノプロ御室撮影所監督志望入社し台本部へ配属された。台本部は、各地支社常設館に送る新作レポート作成する部門で、そこには全作品シナリオ集まったため、脚本勉強をするにはうってつけの場所だった。山中台本部の作業没頭しながら、たくさんのシナリオ目を通し脚本作り勉強をした。マキノプロでは従業員ペンネーム名乗ることが多く山中もそれに倣って社堂沙汰夫しゃどうさだお)」というペンネーム名乗った入社から2ヶ月後山中助監督部へ配属されマキノプロ代表監督である井上金太郎監督お盆用の特作映画いろは仮名四谷怪談』(1927年)で助監督務めた当時助監督は、監督補佐だけでなく、ロケ先の会計俳優出迎え野次馬整理などの雑事任され撮影がうまく進行するために走り回らなければならなかった。しかし、山中はのろまで、いつも何もしない監督後ろ立っているだけで、隙あらばカメラファインダーを覗こうとしてカメラマンに追っ払われた。いつしか山中は「ダメ助監督」として撮影所内に知れ渡り、どの監督からも声をかけられなくなってしまった。それでも撮影所忙しく会社としてもこのまま山中遊ばせるわけにはいかなかったため、山中新人監督小石栄一などの組についたりして助監督1年目過ごした1928年、なかなか監督から声がかからなかった山中は、それを見かねたマキノ正博の組につくことになり、『蹴合鶏』『浪人街 第一話 美しき獲物』などでサード助監督務めた。しかし、何をやらせてものろまで役に立たなかった山中は、助監督として落第だったため、ほかの助監督たちにどんどん先を越されてしまい、監督昇進チャンス見過ごしていた。それにもかかわらず山中要領よく動こうとしたり、会社監督昇進頼み込んだりはしなかった。この頃山中先輩助監督吉田信三仲良くなり、暇さえあればお互い下宿寄り合ってシナリオ修業励んだ。この時に2人現代劇シナリオ街角行進曲』を共同執筆し、マキノ正博賞賛されたが、諸事情映画化には至らなかった。

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映画界入り

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赤木圭一郎」の記事における「映画界入り」の解説

1958年昭和33年)、日活第4期ニューフェイスとして日活へ入社石原裕次郎主演の『紅の翼』に本名の「赤塚親弘」名義群衆一人としてエキストラ出演し、これが映画デビューとなった。その西洋的風貌退廃的な雰囲気これまでの日本人俳優にはない個性として評判呼び、「トニー」の愛称主人公弟分や準主役級として出演するようになった。この愛称は、1950年代から1960年代にかけて人気のあったハリウッドスタートニー・カーティスにどことなく風貌似ていたことが由来である。 1959年昭和34年)『拳銃0号』で演じた不良少年役が評判になった後、鈴木清順監督の『素っ裸の年令』で初主演を果たす。この映画赤木人気手応え感じた日活は、『清水の暴れん坊』と『鉄火場の風』で石原共演させるとこれらの映画評判となった日活はさらに1960年1月から赤木石原小林和田浩治加えた4人で「ダイヤモンドライン」を結成させ、それぞれ毎月1本ずつのペースで彼らの主演映画製作することにした。 その後、『拳銃無頼帖』シリーズなど20本以上の無国籍アクション映画主演し日活アクション俳優として「タフガイ石原裕次郎」「マイトガイ小林旭」に続く「第三の男」呼ばれた。その風貌から「和製ジェームズ・ディーン」とも云われた。また、霧笛が俺を呼んでいる』(1960年)では少年時代からの憧れだったという船乗り演じ、「マドロス姿が最もさまになる日活俳優」とも評価された。 歌手としても、日本グラモフォンポリドール)から『霧笛が俺を呼んでいる』をはじめとする数々ヒット曲リリースした生前レコーディングしたのは、全部25曲)。その声は低音哀愁があり、ブルース似合う声と評された。

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